『愛と笑いの夜』


 洗面所の引き戸を閉め、ちらと横を見ると、鏡には見慣れた自分の姿が映っていた。
 二つに結わいた長い黒髪に、平均よりも低い身長。特別に美人だなんてうぬぼれはないつもりだけれど、どちらかといえば可愛い部類に入るんじゃないだろうか、という自覚はあった。
 梓は鏡の中の自分としばらく見つめあっていたが、顔を近づけると、特に意味もなく、イーッ、と歯をむき出しにしてみる。
(……何やってるんだろ、あたし)
 すぐに我に返り、小さく溜息をついた。
 こまめに磨いているのだろう、鏡には曇りひとつない。憂、こういうとこ、ホントに几帳面。
 唯先輩は大学へ通うようになってから、学校の寮で寝起きしているため、家にはほとんど帰ってこない。ご両親が仕事で、いつも帰りが遅いということもあり、梓は三年生になってから、部活の帰りにそのまま憂の家に寄ることが多くなっていた。
「今日、お父さんもお母さんも旅行でいないから……」
 だからうちに泊まりに来ない? と憂に訊かれたとき、正直すこし気が重かったが、断って二人の仲が気まずくなるのが怖くて、曖昧に頷いた。それに、べつに二人きりになるのが嫌というわけではない。
 はじめてここのお風呂を借りたときのことを思い出す。去年の春頃、たしか唯先輩たちが修学旅行に行っていたときで、純も一緒に三人で泊まったんだよな……。
 梓が服を脱いでいると、コンコン、と引き戸がノックされた。
「憂?」
「……梓ちゃん、開けてもいい?」
 遠慮がちな声。
「いや、……恥ずかしいからやだよ」
「一緒に入らない?」
「……」
 梓はしばらく考えてから、
「入らない」
「ええー」
 引き戸越しでも、憂が不満そうな顔をしているのがわかる。
「だって最近太ったし、恥ずかしいもん」
「そんなの……、梓ちゃん、ぜんぜん太ってないよ」
「……とにかく、いいよ今日は」
 梓はそう言うと、そのまま風呂場に入り、シャワーで軽く体を流してから、お湯がなみなみと張られた浴槽に体をしずめた。その気持ちよさに、ああ、と声が漏れそうになるのをこらえる。うちのお風呂より少し熱めだけれど、何度も入るうちに心構えができるようになった。本当は、もう少しぬるいほうが好きなのだけれど、そんなの図々しいし、わざわざ言うほどのことでもない。
 肩までつかり、しばらくそのまま待っていたが、憂は諦めたのか入ってこなかった。
(……なんだ、ホントに来ないのか)
 なんだか、少し拍子抜けしたような感じもする。
 梓はお風呂から上がる前に、タイルの上に毛が落ちていないかどうか、念入りにシャワーで流した。洗面所にあるドライヤーを借りて髪を乾かしてから、家から持ってきたパジャマに着替え、暗い廊下に出る。
(それにしても、……どうやって切り出そうかな)
 まだ少し濡れている足の裏が、ぺたぺたと音を立てた。三月も半ばとはいえ、夜になるとまだ冷える。
(でも、純、意外と驚いてなかった気がするなあ。こっちはけっこう勇気いったんだけどな。まさか、バレてたとか? ……そんなはずないよね。教室でも部室でも、今までどおりにしてたつもりだし、……)
 憂は、ベッドに腰掛けて携帯をいじっていた。
「いいお湯でした」
 梓が声をかけると顔を上げ、
「あ、じゃああたしも入ってくるね」
 特に残念そうなそぶりも見せず、着替えを手に部屋を出ていった。梓はふう、と溜息をつき、入れ替わりにベッドに腰掛ける。そのまま寝転がり、天井を見上げた。
(憂、怒るかなあ。……あたしたちのこと、勝手に純に相談したりして……)
 でも、他に相談できる人なんか思いつかなかった。ていうか、あたし純と憂くらいしか友達って言えるような人いないし……。それも、憂と付き合いはじめてからは、純一人だけになってしまった。
(憂とのことを、憂本人に相談するわけにもいかないし……、憂がもう一人いてくれたらいいのになあ)
 付き合いはじめる前、ただ仲のいい友達として一緒にいた憂が、今もいてくれたらよかったのに……。
 憂がお風呂から上がってから、二人はぷよぷよをして遊んでいたが、憂が強すぎていっこうに勝てないので、梓はすぐに飽きてしまった。
「もうやだ」
「梓ちゃん、そんなこと言わないでよう」
 二人はそんなことを言いながらしばらくじゃれあっていたが、不意に顔が近づいたとき、憂のほうからキスをした。お互いを求めるように、そのまま何度も唇をかさねた。
「……今日、する?」
「……」
 したいからあたしのこと誘ったんじゃないの、と梓は思った。
 なんだかイライラしてきて、梓は何も言わずに憂に背を向け、ベッドの横に敷かれた布団にもぐりこむ。
「あっ、……」
 足になにか熱いものが当たり、思わず声を上げてしまった。憂は、目を丸くしている梓を見て、くすくす笑っていた。
「おどろいた? 今日寒いから、お布団に湯たんぽ入れておいたの。梓ちゃんがお風呂入ってるあいだに、お湯わかしてたんだよ」


 翌朝、鎌倉みやげだという苺ジャムを、食パンに塗って食べた。食器を片付けた後、
「梓ちゃん、紅茶でいい?」
「あ、手伝うよ」
「いいよいいよ、座ってて」
 憂が台所で紅茶を淹れているあいだ、梓はテレビで流れている天気予報をぼんやりと見ながら、ふあああ、と大きくあくびをし、テーブルに突っ伏して目を閉じる。
 ――でもさあ、どうしてもっと早く言ってくれなかったの?
 二人のことを打ち明けたときの、純の言葉が不意に思い出された。どうしてだろう、と梓は思った。
(ごめん、純……。今、すごい眠いから後で考えるね……)
 憂が戻ってきたとき、すでに梓はすうすうと寝息を立てていた。憂はいったん紅茶をテーブルに置くと、こっそり梓のわき腹をつまんだ。