ロミオとジュリエット 3話

 第三話


 バスが最寄り駅の高架下を過ぎると、やがて、再開発で整備された芝生の公園が見えてくる。
 絵里はぼんやりと窓越しに外の景色を眺めていた。春には桜が満開になり、花見客でにぎわう公園も、今の季節はあまり人の姿もない。
 日曜日の午前中、バスの車内はかなり混雑していた。立っている人もかなりいる。自分が今までほとんどバスに乗ることがなかったので、普段からバスを使っている人がこんなにいることを知らなかった。
 区営団地の前にある停留所でかなりの人が降りていった。乗客が乗り込んだところで、バスはゆっくりと発車する。
「みんなここに住んでるのかな?」
 と、絵里は隣に座っているお母さんに聞いた。
「うーん、それはわからないけど……」と、お母さんは言って、「……そういえば絵里、今日の朝天気予報見た?」  
「ううん」
 首を振る絵里に、
「洗濯物干してきちゃったけど、なんかちょっと曇ってきたわね」
「お父さん、傘持ってきたのかなあ」
 お父さんは、今日は会社の人とゴルフをする約束があるらしく、絵里が起きたときにはもういなかった。
「ちょっとくらいなら平気じゃない? ゴルフって、雨降っても土砂降りとかじゃなければやるみたいだし」
「お父さん、元気だよね……」
 絵里は思わず溜息交じりにつぶやいた。いつも仕事で疲れて帰ってきているのに、休みの日は早朝から出かけるだなんて。
「ゴルフ好きなのね」お母さんは苦笑した。「まあ、それくらいしか楽しみがないみたいだし、いいんじゃないの」
 赤信号で止まっていたバスが、信号が変わると同時に走りだした。その拍子に足元に置いてある、着替えなどを入れた紙袋が倒れてしまったので、手をのばして膝の上へ置く。
「……それにしても、絵里、ちゃんと台詞覚えられてるの?」
「大丈夫だよ、練習してるもん」
 おととい、先生から渡された演劇祭のお知らせのプリントを持って帰ってくるまで、お母さんにジュリエット役をすることは話していなかったので、お母さんはすごく驚いていた。自分の娘が人前で演技をすることが信じられないらしい。
「まったく、あんたが主役なんてねえ……」
 ふう、と溜息をつく。
「だって、くじ引きだもん」と、絵里は言った。
 絵里は小野さんのアドバイスのおかげか、前よりも落ちついて台詞を言えるようになっていた。
「笹原さん、すごいよくなったよ。正直ちょっと心配してたんだけど……」と、クラスの子たちも口々に言っていた。まだ緊張はするけれど、放課後に練習を重ねるうち、だんだん人前に立つことにも慣れてきた気がする。
 本番は、いよいよあと一週間後に迫っていた。
「ちゃんと見に行くからね、お父さんもビデオ撮るって張り切ってたわよ」
「……」
 お父さんのはしゃいでいる様子が想像できる。あんまりテンション上がらなければいいけど……。絵里は小さく溜息をついた。
「ロミオ役の子って、女の子なんでしょう。昨日吉川さんちのお母さんと電話してて聞いたわよ」
 と、お母さんは言った。「誰なの? 仲いい子?」
「あ、この間、夏休み明けに転校してきた子で……」
 言いかけて、ふと視線を外にやる。バスが区役所の建物を右へ曲ると、目的地の、お婆ちゃんの入院している病院が見えてきた。
「……お婆ちゃん、来れないよね」
「演劇祭? ……そうね、今は調子いいみたいだけど、見に来るのはちょっと無理かしらね」
「うん……」
「写真いっぱい撮るから、そしたらまた見せてあげればいいじゃない」
 やがて、病院の前の停留所で二人は降りた。病院の敷地内には銀杏の木があり、葉がかすかに色づきはじめていた。日曜日は緊急外来のほかは閉まっているため、ロータリーにはタクシーも一、二台しかとまっていない。
 お母さんが受付でお見舞いの手続きをしている間、絵里はロビーに置かれた長椅子に腰かけていた。入院患者らしい点滴をつけたままのお爺さんが目の前を歩いていくのを目で追う。
 お婆ちゃん、このまま持ち直すんじゃないだろうか、と絵里は思った。
 お母さんの話によれば、入院した時よりもずっとよくなっているらしい。もう八十歳を過ぎているし、いつまでも元気でいられないのはわかっているつもりだけれど、今すぐにどうにかなるとはとても思えなかった。
 こうやってお見舞いに来るのも、もしかしたら最後になるのかもしれない。
 そう考えてみたところで、実感は湧かなかった。会えなくなるのは、もっとずっと先のことだと思っていた。
「絵里、行くわよ」
「あ、うん」
 お母さんに声をかけられ、絵里は立ち上がった。二人は廊下を曲り、エレベーターの方へ向かう。
 死んだら、と絵里は思った。……死んだら、どうなるのだろうか?
 みんなで家に泊まったあの日、平塚くんは、お父さんが事故で亡くなったのだと言っていた。
 寝る前、トランプがひと段落した後、みんなが歯磨きをしたり飲み物を階下に取りに行ったりして、たまたま二人きりになった。
 その時平塚くんは、なんの前触れもなくそのことを口にした。仕事の帰りに酔っ払い運転の車に轢かれ、お母さんと一緒に病院に駆けつけた時にはもう亡くなっていたのだと。
「ぼくはでも、小さかったからあんまり覚えてないんだ」
 と、平塚くんは淡々とした口調で話していた。
「でも、なんかやさしかった気がする。……たかいたかいとかよくしてくれてたんだって、お母さんが言ってた」
 その話は、ちょうど詩織ちゃんと小野さんが台所から麦茶を持って上がってきたので、そこで終わってしまった。
 ジュリエットは劇の中で、修道士にもらった薬を飲んで四十二時間のあいだ仮死状態になる。それを本当に死んだと勘違いして、ロミオはジュリエットの死を嘆き悲しみ、毒を飲んで自殺をしてしまったのだ。……
 絵里は、ジュリエットが、薬が本当の毒薬で、修道士が自分のことを殺そうとしているのではないか、と疑う場面を思い出した。

『もしこれがほんとの毒薬だったら? あの神父様が、こっそりと、
 私を殺そうとして調合した毒薬だったら?
 以前に私をロミオと結婚させたてまえ、
 こんどの結婚をとり行えば面目が潰れることになる、
 と、すれば、これは毒薬かも? でも、そんなことは考えられない、
 だって、神父様はだれしも認める聖いお方なのだから。
 では、もし納骨堂に入れられたあとで、
 ロミオが助けにきてくれる前に眼がさめたとしたら、
 私はいったいどうなる? こわいのはそのこと!
 あの地下の納骨堂の中で、……ぞっとするその入口からは新しい空気も入ってこない
 あの納骨堂の中で息がつまってしまい、
 ロミオの来るのも間に合わず、死んでしまうのではなかろうか?』

 病室でお婆ちゃんと話している間も、ずっとその場面が頭の中をぐるぐる回っていた。
「ほんとうに、よく来てくれたねえ。あんたたちだけだよ、いつも来てくれるのは……」
「でも、お母さん元気そうでよかった。……昨日の夜、地震あったけど大丈夫だった?」
 と、お母さんは着替えを入れた紙袋を渡しながら言った。
「そうなの、ぜんぜん気がつかなかったわ……」
「ねえ、絵里もお婆ちゃん元気そうに見えるわよね」
「うん、……」
「この前、絵里ちゃんに会う夢を見たんだよ。正夢になったわね」
 そう言って嬉しそうに笑っている、皺だらけのお婆ちゃんの顔を見ながら絵里は思った。
 平塚くんは、お父さんが亡くなった時、どんな気持ちだったんだろう。  
 そうして、あたしは、お婆ちゃんが亡くなる時、どんな気持ちになるんだろう……。 

 
 最寄り駅の近くまで帰ってきた頃には、もう昼の一時をまわっていた。人の行きかう駅前のロータリーでバスを降りると、お母さんは言った。
「時間大丈夫なの? 今日、詩織ちゃんたちと一緒に遊ぶんでしょう」
「うん。まだ平気」
 絵里は、病院の食堂でカレーライスを食べ、満腹になったお腹をさすりながら答えた。
「お母さん買い物してから帰るから、……あんまり遅くならないようにしなさいよ」
「はーい」
 お母さんと別れ、絵里はそのまま大通りの方へ足を向ける。詩織ちゃんたちとの待ち合わせ場所は、駅のすぐ近くにあるショッピングモールだった。数年前に出来たばかりで、休みの日はいつも家族連れで賑わっている。
 約束の時間には少し早かったが、詩織ちゃんと小野さんはすでに来ていた。
「あ、絵里ちゃんだ、おーい」
 入口前の、噴水のある広場の前まで来ると、声をかけられる。ベンチから立ち上がって手を振っているる詩織ちゃんを見つけ、絵里は立ち止まって手を振り返した。
 そのまましばらく手を振り合っていたが、
「何やってるの、早くこっちきなよー」
 と、詩織ちゃんの隣に座っている小野さんが叫んだ。
 手を振るのに夢中で自分が立ち止まっていたのを忘れていた絵里は、照れ笑いをしながら二人のそばへと小走りで近づく。
「二人とも早いね」と、絵里は言った。「……詩織ちゃんはともかく、小野さんが遅刻しないなんて、めずらしい」
「失礼な」小野さんは不満そうに頬を膨らませた。
「ねえねえ、絵里ちゃんちょっと見てて」
 と、詩織ちゃんは言った。
「?」
「ショートコント、待ち合わせ」
 そう言って詩織ちゃんが合図すると、小野さんが少し離れた場所に立ち、小走りであらためてこちらへ近寄ってきて、
「ごめん、ちょっと遅れちゃった……。待った?」
「ううん、今来たとこ」
 詩織ちゃんはそう答え、にっこり笑った。
「ついさっき着いて、コンビニでアイス買って食べて、まだ時間があったからそこのお店で服も見て、暑かったし区民プールで泳いできて、いったん家に戻ってご飯食べてお風呂入って着替えてから来たところ」
「何時間待ってるねん!」
 と、小野さんがツッコミを入れた。
「……」
 絵里は、どう反応したらいいのかわからずにぼんやりしてしまう。
「……あれ、ウケてない?」
 詩織ちゃんはひそひそと小野さんにささやく。
「……ぜったいウケると思ったんだけど……」
 と、小野さん。
「……待ってる間、ずっとそれ考えてたの?」
 二人とも仲いいなあ……。
「……何してるの?」
 声に振り返ると、岡さんが不審そうな顔でこちらを見ていた。
「あ、委員長やっほー」
「ごめん、ちょっと遅れたかも」と、岡さんは言った。「……ところで、今日ってどういう集まりなの?」
「小野さんがプリクラ撮ったことないっていうからさあ、せっかくだし一緒に撮ろうと思って」
「あたしも撮ったことないよ」
 と、絵里は言った。
「じゃあなおさら撮らなきゃだめじゃん」
「……あたしも一緒でいいの?」
 岡さんが訊くと、
「委員長と一緒がいいんだよ」と、小野さんが言った。「ほらほら、行こっ」
 小野さんは、戸惑いぎみの岡さんの手を引いて建物の中に入っていく。絵里と詩織ちゃんの二人もその後につづいた。
 休日のショッピングモールはそれなりに混み合っていた。この辺りには他に遊ぶところもないため、地元の学生は、休みになるとここに来ることが多い。二階建てなのだが、施設のほとんどの部分に屋根がなく空が開けているので、晴れた日には、公園代わりにお弁当を持って広場で食べている家族連れなども、ちらほら見受けられた。
 通路脇には手作りのアクセサリーや、古着を売っているワゴンが並んでいて、いちいちその一つ一つを冷やかしながら歩いていく。その間にも、何度も館内放送で迷子のお知らせを流していた。
 ドーナツ屋の角を曲ると、円形の広場へ出た。奥にあるステージでは、たまに売れない芸人やアイドルのライブをやっているのだけれど、今は誰もいない。客席ではおじさんがスポーツ新聞を顔にかけたまま昼寝をしている。そのまま広場を横切ると小さなゲームコーナーがあり、エアホッケーメダルゲームに混じってプリクラの筐体が一つだけ置かれていた。
 四人はカーテンの中に入った。
「フレームどうする?」
「……これでいいんじゃない? これ一番かわいいよ」
「え、落書きとか出来るんだ……」
「そうそう、これずいぶん古いタイプのやつっぽいけどね」
「今さらだけど、小野さんすごい髪ぼさぼさだけど、いいの……」
「あたし髪とかしたことないもん」
「男子か」
「髪のばしたこととかないの?」
「だってめんどくさいんだもん。髪洗うの楽でいいよ」
「じゃあ撮るよー」
「……」
「……くふっ」
「あはははははは」
「小野さん、急に変な顔しないでよ、もう、笑っちゃったじゃん……」
「ごめんごめん、つい……」
「じゃあ、もっかい行くよー」
「……」
「……ふふっ」
「あはははははは」
「もう、詩織ちゃんも!」
「ごめんごめん、つい……」
 ……
 カーテンの中からはしじゅう、楽しそうな笑い声が聞こえていた。メダルゲームをやっていた小さい男の子が、不思議そうにそちらを振り返った。


「はー、おかしかった……」
「こんなに笑ったの久しぶりかも。……これとか、小野さんすごい顔してるよね」
 絵里と岡さんは広場のベンチにさっき撮ったプリクラを広げていた。小野さんと詩織ちゃんは、お腹が空いたらしくさっき屋台で見かけたたこ焼きを買いに行っている。
 ステージのそばでは、どこかのお店が新規オープンしたらしくパンダの着ぐるみが宣伝用の風船を配っていて、小さい子どもたちが集まっていた。着ぐるみのそばにいる、ピエロのような格好をした男の人が、アコーディオンで楽しげな曲を演奏している。
 やがて二人の方へも近づいてきた。絵里は差し出された風船を断ったが、委員長は赤い風船を受け取った。
 それを見て絵里は、
「……なんか、意外」
「え?」
「委員長、そういうのもらわなさそうだから」
「え、そう……? 小さい頃からもらってたから、なんか癖で」
 そう言うと、照れて顔を背ける。なんだか、委員長の新しい面を見たようで、嬉しくなった。
「あたしもやっぱもらえばよかったかな」と、絵里は言った。「……それにしても、今まで委員長と遊んだことなかったよね、たぶん……」
「そうかも。学校でしか会わないよね」
「こないだ、銭湯で会った時、びっくりしたもん」
 一息つき、空を見上げる。
 いつの間にか晴れわたり、雲ひとつない青が広がっていた。やっぱり、天気予報外れたなあ……。
「でも、よかった」
「え?」
 絵里のつぶやきに、委員長は不思議そうな声を上げた。絵里は、委員長の顔を下から覗き込むようにして、
「岡さん、最近なんか元気なかったでしょ? あ、あたしの気のせいだったらごめんね……。なんか、そう見えたから」
「……そう、かな」
「それでね、今日みんなで遊ぼうってことになったの。だから、委員長が元気出たんならよかった」
「……」
 その時、アコーディオンで弾いている曲の調子が不意に変わり、男の人が歌いだした。思わず絵里はそちらに顔を向けた。

『鋭い悲しみが胸を挫き、
 沈痛な憂愁が胸をしめつけるとき、
 音楽はその銀の調べをもって、――』

 この歌、どこかで聴いたことがあるような……。絵里はそう思いながら、ぼんやりとそちらを眺めていると、
「……うっ、」
 突然岡さんが、俯いて手で顔を覆った。その拍子に持っていた赤い風船が手からはなれ、あっという間に青い空へと吸い込まれていった。
「……岡さん?」
「う、ううう……」
 岡さんは突然泣き出してしまった。
「え、大丈夫……?」と、絵里は心配そうな声をあげた。「ええと、お腹痛いとかじゃないよね……」
 岡さんは何も答えない。絵里はどうすればいいのかわからなかった。とりあえず隣に座り、背中をさすってあげる。
 しばらくそうしていると、ようやく落ちついたのか、岡さんはゆっくりと顔を上げた。赤い目元をしきりに拭い、鼻をすすり上げている。
「……落ちついた?」
「……」
「……あたし、なんか悪いこと言ったかな」
 岡さんは無言で首を横に振った。
「じゃあ、……どうしたの? 何か悲しいことでもあったの?」
「……」
「もし何か悩みとかあるんだったら、言ったほうがいいよ。あたしでよかったら相談乗るし」
 と、絵里は言った。
「あんまりアドバイスとかできないかもしれないけど……人に話すだけでも楽になるかも」
「……、違うの」
「え?」
「違うの、そうじゃないの……」岡さんはまた顔を伏せてしまった。
 しばらく無言の時間が続いた。
「……あたし、そんなことしてもらう資格ないの」
 そこで、岡さんは躊躇うように言葉を切る。
「……」
「……あのね、笹原さんに謝らなくちゃいけないことがあるの」
「え、あたし?」
 絵里は驚いて自分の顔を指さした。
「……笹原さん、正人くんのこと、好きなんだよね?」
 急にそう言われ、絵里は何も言葉が出なかった。
 動悸が速くなるのを感じる。どうして委員長がそのこと知ってるんだろう。ていうか、謝りたいって何を……、あたしが平塚くんのことを好きなのに関係あるのかなあ……? 
 一瞬のあいだに、色々な思いが頭の中をぐるぐる回る。混乱する絵里をよそに、岡さんはかすれ声でつづけた。
「あたし、見ちゃったの。夏休みの前、笹原さんが、正人くんの机に手紙を入れるところ……」
 そこまで言うと、また岡さんの目元に涙がたまってきた。頬を涙が垂れ落ち、しゃくりあげはじめる。
「ずっと好きだった……」
「……」
「あたし、正人くんのことずっと好きで、……でも、もうふられてるの。告白したけど、友達以上には見られないって……。
 悪いとは思ったけど、笹原さんの手紙、開けて中身見たんだ。それで、怖くなった。もし、笹原さんと正人くんが上手くいっちゃったらどうしようって……。だから机から手紙を抜いて、焼却炉に捨てたの」
 絵里は、目の前の事態に頭が追いついていなかった。
 誰かが泣くのを見るのは、ずいぶん久しぶりな気がする……、そんな関係のないことをぼんやり考えていた。
「ごめんね、ごめんなさい……」
 岡さんの声は、嗚咽のせいでよく聞こえなかった。 
「何度も何度も、言おうと思った。ずっと思ってた……」
 と、岡さんは言った。
「でも怖くて、言えなくて……。笹原さん、きっとあたしのこと嫌いになる。当然だよね、それだけのことしたんだもん。自分の勝手な気持ちのせいで、笹原さんのこと傷つけて……
 でも、嫌われたくなかったの。
 そんなことしておいて、それでもあたし、嫌われたくなかったんだ。
 だから……、ずっと怖くて、言えなかった」
「……」
「あたし、自分がこんなに嫌な人間だなんて、知らなかった……」
「……」
「ごめんね、ごめん、……ごめん……」
 ごめんね、
 ごめんなさい……。


「……だから昼間、二人とも先帰っちゃったんだ」
 電話口の向こうで、詩織ちゃんがそう言った。
「小野さんといっしょにたこ焼き買って戻ったらさあ、二人ともいないから、心配したんだよ」
 絵里は、自分の部屋の扇風機の前に座り込み、風に当たっていたが、布団に寝転がった。
 耳元に受話器を当てながら、  
「うん、……」
「でもやっぱり、絵里ちゃんは平塚くんのこと好きだったんだね」
「……ごめんね、ずっと黙ってて」
 絵里はそう言って、
「……ていうか、やっぱりって……」
「絵里ちゃんわかりやすいもん。だから、何となくそうなんじゃないかなーって思ってた」
「そうなんだ……」
 あたし、そんなに態度に出てたのかなあ。絵里は寝返りをうち、天井を見上げた。
「……絵里ちゃん、大丈夫?」
 不意に、詩織ちゃんが言った。
「え?」
「だって、手紙……」と、詩織ちゃんは言った。「好きだって、……平塚くんのこと好きだって、伝わってなかったんでしょ」
「……うん」
 そう、勇気を出して書いた手紙がそもそも読まれていなかったというのは、確かにショックだった。
「……でもね、……なんか、意外と平気みたい」
「そうなの?」
「平気、なのかな……。ええと、平気っていうか……、委員長の気持ち、わかる気がするから」
と、絵里は言った。
「……もし逆の立場だったら、あたしも同じことしたかもしれない。わかんないもん」
「……小野さんは知ってるの?」
「ううん。小野さんて、転校してきたのつい最近でしょ? だから連絡網に電話番号まだのってなくて、電話できないんだよね……」
「心配してたよ。二人のこと」
「……あたし、直接言うよ」と、絵里は言った。「たぶん、その方がいい気がする」
「そっか……」
「……あれ?」
 絵里は不意に、不思議そうな声を上げた。
「どしたの?」
「いや、……」
 起き上がり、窓に近づく。暗い窓の向こうからは、さっきまで外を走る車の音しか聞こえていなかったけれど、いつの間にか、小さな雨音が聞こえ出していた。窓にも細かい雨粒がいくつもつきはじめている。
 雨だ……。
 昼間、あんなに晴れてたのになあ。
 あの風船はどこまで飛んで行ってしまったんだろう、と絵里は思った。委員長が空に飛ばしてしまった、あの風船は……。
 絵里はしばらくのあいだ暗い空を見上げていた。


  ※


 パタパタパタパタ……。
 廊下を歩くスリッパの音が聞こえていた。放課後の校舎には、もうほとんど人の姿もない。最終下校の時刻はもう過ぎていた。
 絵里はランドセルを背負ったまま、五年二組の教室の戸を開け、中に入った。窓ごしに見える空はもうすでに赤く染まっている。
 窓際にある自分の机の中を確認し、
「あ、よかった、あった……」
 ほっとして、溜息をつく。明日提出の算数のプリントを忘れてしまい、引き返してきたのだ。
 無意識に、小野さんがよくやっているように、スリッパの爪先をこつこつと床に当てる。
 昨日の雨のせいで、家のベランダに干していたままだった上履きが、まだ乾いていなかったので、絵里は仕方なく職員室でスリッパを借り、今日一日過ごしていた。それを見た小野さんは、「おそろいだね」と、嬉しそうに笑っていた。小野さんは、いまだに上履きを買うことなく、スリッパのままでいつも校内を歩き回っていた。
 小野さんには、まだあのことを言っていなかった。
 だって、どうやって切り出したらいいんだろう。
 委員長があたしの手紙を平塚くんの机から抜いて、焼却炉に捨てたなんていうこと……。
 それを知ったら、小野さんは怒るだろうか。
 あの、掃除の時間の時みたいに、あたしのために怒ってくれるだろうか。
 でも、そのせいで委員長と小野さんの仲が悪くなったりしたら、どうしよう……。
 なんだか、色々なことを考えてしまって、言い出すタイミングを逃してしまった。やっぱり、小野さんには黙っていた方がいいのだろうか……。
 いくら考えてみても、よくわからなかった。
「……もう、帰ろ」
 机の間を通り抜け、廊下に出ようとして――絵里は、黒板の前でふと立ち止まった。
 ――あたしたち、フライデーされちゃうかもね。
 不意に、詩織ちゃんの言葉を思い出す。絵里は、半分折れている白いチョークを手に取った。 
 平塚くんは、あたしが平塚くんのことを好きなのを知ってて、あんなふうな態度でいたわけじゃなかった。
 そもそも、あたしの気持ちを知らなかったんだ。
 カッ、カッカッ……。 
 チョークの音が、誰もいない教室の中にひびく。 
 ――教室の黒板に相合傘描かれちゃうかもよ。
 あたし、別にふられたわけじゃなかった。
 もし、もう一度告白したら……、と絵里は思った。もし、もう一度告白したら……。
 絵里は自分の描いた相合傘をじっと見ていた。
 このまま残しておいたら、明日の朝すごい騒ぎになっているだろうな。そう思い、黒板消しを手にしたが、なんだかすぐに消してしまうのが躊躇われた。
 もし、もう一度告白したら……。
 その時、廊下を歩く足音が聞こえてきた。え、誰か来る……? 五年二組は校舎三階、西階段のそばにあり、その先には特別教室しかない。
 足音はなおも近づいてくる。
 絵里は教室の中を見回し、咄嗟にカーテンにくるまって隠れた。隠れてから、すぐに後悔する。隠れる必要なんてなかった、クラスの誰かなら、すぐに相合傘を消して、何食わぬ顔でごまかせばよかったのに……。そう考えるが、今さら出ていくこともできなかった。
 やがて教室の戸が開き、平塚くんが入ってきた。
 平塚くんはきょろきょろと何かを探すような仕草をしていたが、おもむろに床にかがみこむと、何かを拾い上げた。
 それは将棋の駒だった。銀が一枚なくなってしまい、教室に落ちていないだろうかと探しに来たのだ。平塚くんは、安心したのかふうと息をつき、駒をポケットに入れた。そこで何気なく振り返り、黒板に目をやる。

 笹原絵里
 平塚正人

 平塚くんはその相合傘をしばらくのあいだじっと眺めていた。そして、何かの気配を感じて窓の方に顔を向け――、カーテンの下からスリッパを履いた足が見えているのに気がついた。
「……小野さん?」
 ……平塚くん……。
 絵里は、声の主が誰なのかすぐにわかった。
 同時に、どうして小野さんと間違えられたのだろうと思ったが、自分の足元を見て思い当たる。
 そっか、あたし、今スリッパ履いてるから……。
 どうすればいいのかわからず、声を出さずにそのままじっとしていた。ていうか、絶対相合傘見られたよね、ああもう、死にたい……。
 平塚くんはもう一度黒板の方を見てから、
「……これ描いたの、小野さん?」
 と、言った。
「……」
 絵里は何も答えない。
 平塚くんは気まずそうに頭をかいて、
「……こないだ泊まりに来た日、小野さん言ってたよね。笹原さんが、ぼくのこと好きだって……」
 ……え?
 絵里は自分の耳をうたがった。思わずカーテンを掴む手に力がこもる。
 今、……今、なんて言ったの?
「夜中、ぼくが喉かわいて起きちゃって、下に麦茶飲みに行ったら、小野さんがいてさ。その時話したよね。
 ……覚えてる?
 笹原さんがぼくのこと好きだから、好きになってあげてほしい、とってもいい子だからって……。
 急にそう言われて、すごいびっくりした……」
「……」
「あれからずっと、言おうと思ってたんだ」
 そう言って、平塚くんは言葉を切った。平塚くんの顔は、夕陽に照らされて赤くなっていた。
 絵里の呼吸は止まりそうだった。
 無言の時間が、まるで永遠につづくようにも思えた。
 その時、どこかで何かの落ちるような大きな音がしたかと思うと――、突然足元が大きく揺れた。
 ……え、何これ、地震……?
 落ちついて考える余裕はなかった。窓際に置いてあった水槽の水が揺れてこぼれ、箒の入っているロッカーの上に置いてあったバケツが床に落ちて大きな音を立てた。
 大きな揺れに立っていられず、絵里は大きくよろけ――、カーテンの外に出て、へたりこんでしまった。
 同じようにしゃがみこんでいた平塚くんと目が合う。
 お互いに顔を見合わせ、何も言葉が出てこなかった。
「……とにかく、危ないから机の下に入ろう」
 ようやく、平塚くんがそう言った。
「……うん」
 二人は並んだ机の下にそれぞれ潜り込んだ。机の脚をおさえて動かないようにする。
 こんなに大きな地震、生まれてはじめて……。すごく怖かったけれど、反面、妙に頭の中は冴えていた。
 絵里は不意に思い出した。乳母の語る、ジュリエットが小さかった頃のこと……。

『……地震の年から数えて今年は十一年目でございましょう、
 ちょうどあのとき、――忘れようたって忘れられませんですよ――
 一年三百六十五日、その中でも、ちょうどあの日に乳離れをなさいましたんですよ。
 あのとき、あたしは乳首ににがよもぎの汁を塗ってましてね、
 そして鳩小屋の壁の所で日向ぼっこをしておりましたんですよ。
 旦那様と奥様はちょうどマンテュアにいらしてご不在中のことで――
 いいえ、ね、あたしの頭はまだぼけてはいませんですよ――』

 しばらくそうしていると、ようやく揺れがおさまってきた。掲示板のそばの花瓶は落ちて割れ、黒板の下にはチョークが散乱し、水槽のそばの床はびしょびしょに濡れていた。学級文庫の棚にさしてあった本も、何冊か落ちて頁が開いてしまっ ていた。 
「……おさまった?」
「……かなあ」
 絵里が横を向くと、予想より近くに平塚くんの顔があった。
「……どこから聞いてた?」
 と、平塚くんが言った。
「……ぜんぶ」
 と、絵里は答えた。
「そうだよね……」
 平塚くんは目を伏せたまま、
「……笹原さん、ほんとに僕のこと好きなの?」
 絵里はその言葉に、しばらく迷っていたが、ためらいがちに頷いた。
 ――実はぼくも、ずっと前から笹原さんのこと、好きだったんだ。
 そして平塚くんが、そんな台詞を言う場面を想像した。
 なんだか、上手くいきそうな気がした。
 ううん、……上手くいかないはずなんてない、と思った。
 だって、漫画とか小説とか……、お話の中では、いつだってそういう風になっていたから。
 絵里は平塚くんの次の言葉を待った。
 しばらくの間、無言が続いていたが、やがて平塚くんが口を開いた。
「……、ごめん」
「……」
「別に笹原さんのことが嫌いだとか、そういうんじゃないよ。……でも、女子のこと好きになるとか、……友達じゃなくて好きになるとか、よくわかんないんだ。笹原さんのこと、今までそんなふうに思ったことなかったから……」
 ……大丈夫、
 ……大丈夫だよ。
 だって、元々ふられてるはずだったんだから。
 平気だって、それでも一緒にいられるだけで嬉しいって、そういう風に思えるようになったんだから。 
 だから、泣いちゃだめだ。
 泣いたり、泣いたりしちゃ……。
「……」
「……笹原さん」
 絵里は、勝手にあふれ出る涙を止めることができなかった。
 乱暴に目元を拭い、平塚くんに背を向けると、机にぶつかりながらよろよろと教室の外へ出る。
「……あ、う、うあ、あああ……」
 嗚咽を漏らしながら、人気のない暗い廊下を歩いた。
 ――どうして?
 ――……どうして、あたしじゃだめなんだろう?
 一目惚れじゃない。
 あたしの気持ちは、ロミオとジュリエットみたいに一目惚れなんかじゃない。一目惚れの恋が実るのに、どうしてあたしはだめなんだろう。
 ずっと、
 ずっと、好きだったのに……。

 
 教室に残された平塚くんは、ぼんやりと窓の外の夕陽を見ていた。すると、廊下からバタバタと騒がしい足音が聞こえてきて、突然戸が開けられた。
「あ、……」
 平塚くんがそちらを向くと、息を切らせた警備員さんが立っていた。いつもは宿直室にいるので、ほとんど顔を合わせたことはない。
「君、大丈夫だったかい、今の地震……」
「あ、はい……」
「今、生徒が残ってなかったかどうか見て回ってるんだ。……また大きいのが来るかもしれないし、いちおう一緒に来たほうがいい。ほら、行こう」
 平塚くんは頷くと、そのまま廊下へ出ようとして……、 ふと、黒板の前で立ち止まる。
 少し迷っていたが、黒板消しを手に取り、絵里の描いた相合傘を消した。


   ※



 こんにちは。
 あ、なんか、こんにちはっていうのも変か……。
 ふだんはそんなこと言わないもんね。
 突然こんな手紙を書いたりしてごめんなさい。
 どうしても、直接言えないことがあったので、こうやって手紙を書きました。 

 平塚くん、おぼえてますか?
 三年生のとき、プール行ったこと。他の子たちもみんなで……。あたしが怪我しちゃった時、一緒についてきてくれたよね。
 それから、同じクラスになれて嬉しかった。 
 あのときのこと、一度も話したことないけど……。あたしは、ずっと忘れていませんでした。
 いつからかはわからないけど……、いつの間にか、平塚くんのことが好きになっていました。
 毎日顔を見るだけでどきどきして、うれしくて、……平塚くんも、あたしと同じように思っていてくれたらどんなにいいだろうって、そう思います。

 平塚くんは受験しないって、石浜くんに聞きました。
 あたしも受験はしないので、同じ第三中だね。
 中学になっても、同じクラスになれたらいいな。

 手紙だと、なんだか変な感じ……。どうしても敬語になっちゃうね。
 迷惑じゃなければ、返事もらえたらうれしいです。

                                           笹原絵里』


   ※

 
 たとえ誰かが失恋しても、そんなことはお構いなしに、時間はどんどん過ぎていく。
 演劇祭まであと四日、各クラスの練習も最後の追い込みに入っていた。生徒たちはみんな浮き足だっていて、授業中にも台本を覚えなおしたり、休み時間や放課後だけではなく、給食の時間や教室移動のあいだにも、お互いに台詞の確認をしたりしていた。 
 授業中に台本を読みながら、ぶつぶつ台詞を呟いていた男子の一人が先生に見つかり、
「ほら、熱心なのはいいけど、ちゃんとけじめつけなさい」
 と、教科書を丸めて頭をはたかれ、周りから笑い声が上がった。
 放課後、五年二組の教室では衣装合わせが行われていた。
「わ、絵里ちゃん似合うじゃん」
 と、ジュリエットの衣装を着た絵里を見て詩織ちゃんが言った。
「……そう、かな?」
 絵里は、白いドレスのようなワンピースの裾を手で払ったり、落ちつかない様子を見せている。
「うんうん。かわいいよ。いい感じ」と、女子の一人が言った。「大きさもちょうどいいくらいだね」
 小道具や書割はクラスのみんなで手作りしていたが、衣装だけはそうもいかなかったので、先生の知り合いで貸衣装屋をやっているという人から、雰囲気に合うものを借りてきてもらうことになっており、それを初めて試着してみたところだった。
 絵里が前髪を気にしていると、詩織ちゃんが手鏡を貸してくれた。自分の顔を覗き込む。 
 ……昨日の夜、泣きすぎたから、目腫れてるかと思ったけど、そうでもないな。よかった。
 鏡の角度を少し変えると、肩越しに、石浜くんと台本を見ながら喋っている平塚くんの姿が映った。絵里が見ているのには気づいていないようだ。
 あれから、平塚くんとはまともに話をしていない。というより、平塚くんが話しかけてきても、絵里はずっとそれを無視していた。
 だって、何話したらいいのかわかんないんだもん……。
 ふう、と内心で溜息をつく。
 平塚くんに会いたくないので、本当は学校を休みたかったけれど、いちおう劇の主役に選ばれている身だ。練習に出ないわけにはいかなかった。
 もう一人の主役の小野さんは、ロミオの衣装を着て、小道具の剣を鞘から抜き、町での小競り合いの場面での、立ち回りを確認していた。少し離れたところでは、女子数人がそれを見てきゃあきゃあ言っている。背は高くないけれど、小野さんはこういう動きをさせると、相変わらずすごくさまになっていた。
 小野さんは一息つくと、絵里の方に近づいてきて、
「絵里ちゃん、かわいいよー」
 と言って、にっこり笑った。
「ありがとう。小野さんもかっこいいよ」
 小野さんはあはは、と笑って、
「もう、本番まであと四日なんだね……。なんだか、この一ヶ月、すごい早かった気がするよ」
「小野さん、転校してきたばっかりなのに、色々あったもんね」
「うん」
 小野さんは頷いて、
「……舞台、成功するといいよね」
「うん……」
 けれど、絵里は気にかかっていることがあった。平塚くんのこと以外にも、もうひとつ。
 無意識に教室の中を見回していた絵里に、
「……委員長?」
 と、小野さんは心の中を読んだみたいに言った。
「ここんとこ、ずっと休んでるよね」
 岡さんは、もう五日学校に来ていなかった。先生に聞いたところ、風邪をこじらせてしまって熱が下がらないらしい、ということだったが、絵里は、この間のことが原因で学校に来たくないんじゃないだろうかと疑っていた。
「本番、ちゃんと来れるのかな」
「……わかんない」
 二人が話していると、先生が入ってきて、「はいはい、じゃあ練習始めるわよー」と、手をパンパンと叩きながら言った。 
 最終下校の放送が流れる少し前には、練習が終わった。絵里はトイレを済ませてから、小野さんの待っている昇降口へと急いでいた。職員室前の廊下を通る時、不意に戸が開いて中村先生が出てきた。
「あ、笹原さん……帰るとこ?」
「はい」
 絵里は立ち止まって、
「先生は?」
「あたしも帰りたいけどねえ……」と、先生は苦笑した。「このあいだ地震あったでしょう。うちの子たちはみんな無事だったけど……、本が落ちてきて怪我した子とかも、他の学区域ではいたみたいなの。
 だからその対策っていうか、避難ルートの確認とか、非常食のこととかね、話し合わなくちゃいけないのよ」
「そうなんですか……」
「さっき、衣装似合ってたわよ」
 と言って、先生は笑った。
「……ありがとうございます」
 絵里はぺこりと頭を下げた。
「借りてきた甲斐あったわ。どうせなら、他のクラスに負けない舞台にしたいもんね」
「衣装貸してくれたの、先生の知り合いなんですよね?」
「そう。いろんな仕事してるやつでねー、昔は輸入雑貨のお店やってたのよ」
「そうなんですか」
「確か、その前は豆腐屋だったし」
 ぜんぜん系統違うでしょ、と先生は笑いながら言った。
「あたし、お豆腐好きです」
 と、絵里は言った。
「ありがと。……って、あたしがお礼言うことでもないけどさ」
「あはは」
 絵里は先生のお腹を見て、また大きくなっているように思った。
「今、何ヶ月ですか」
「五ヶ月くらいかなー」と、先生は言って、自分のお腹をさすった。「笹原さん、触ってみる?」
「え、大丈夫ですか」
 先生は笑いながら、
「平気よ、ほら……」
 先生に促され、絵里はおそるおそる先生のお腹に手を触れた。
「……」
「どう、感想は」
「……よくわかんないです」
「そりゃそうよねえ」
「男の子か、女の子か、もうわかってるんですか」絵里は訊いた。
「ううん。まだ聞いてない……」
 先生なんだか嬉しそう、と絵里は思った。赤ちゃんのことを考えるだけで、楽しいみたいだ。
「どっちがいいですか?」
「どっちでも嬉しいよ」と、先生は言った。「でも、……どっちかといえば女の子の方がいいかなあ。だって、あたし女の子だったことはあったけど、男の子だったことはないからさ。男の子の気持ちとか、あんまりわかんないもん」
「……」
 絵里は何も言わなかった。
「でもあの人は、男の子の方がいいって思ってるかもね」
「……あたしも、」
「え?」
「あたしも、もし子供を産むことになったら、女の子の方がいいです」
「……」  
 怪訝そうな表情の先生に構わず、絵里はつづけた。 
「……だってあたしも男の子の気持ち、よくわかんないから」
 

 岡さんは、パジャマ姿で自分の部屋のベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を見上げていた。
 部屋の中には、壁際に置かれたピアノと本棚、それ以外にはほとんど物が置かれていない。
 ベッドのサイドボードには、よく手に取るお気に入りの本が数冊並んでいる。その中から一冊の手帳を取り出して開く。そこには、この間ショッピングモールで絵里たちと撮ったプリクラが貼られていた。
 岡さんはしばらくそれを見ていた。
 自分の写真を見るのは苦手だった。笑うのが苦手だったから……。
 ……あたし、こんな風に笑うんだな。
 自分の笑顔を見るなんて、ひどく久しぶりな気がする。
 やがて、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。たぶんお母さんだろう。岡さんはそう思い、布団をかぶりなおした。まだ具合が悪いふりをしなければいけない。
 壁に画鋲で留められたカレンダーに目をやる。
 一、二、三……もう、学校に行かなくなってから五日が経っていた。
 でも、いつまでこんなこと続けるんだろう。仮病を使って学校を休みつづけるのもそろそろ限界だと思う。
 ……お母さんも、何も言わないだけで、うすうす気づいているんじゃないだろうか。 
 それに、……もうすぐ演劇祭だ。
 みんな、がんばって練習してるだろうな。委員長のくせに、クラスに迷惑をかけていることを考えると、ますます行きづらくなってしまう。
 ……だから嫌だったのに、と思う。
 本当は委員長なんて柄じゃない。率先して何かをやるようなタイプじゃないのに、成績が良いというだけで推薦されてしまい、断ることができなかった。
 足音がドアの前で止まり、コンコン、と遠慮がちにドアをノックされる。
「亜佐美……、 起きてる?」
 お母さんの声。
「……」
 返事をするかしばらく迷ったが、
「……起きてる」
「あのね、お友達がお見舞いに来てるわよ」
「え?」
 驚いて、思わず起き上がる。
 お友達って、誰のことだろう……。
「岡さん、具合悪いなら大丈夫です、あたしは……」
「でも、せっかく来てくれたんだから。……亜佐美、開けるわよ」
 返事をする前にドアが開けられた。そこにいたのは、見覚えのある顔だった。……今、プリクラの写真で見たばかりの顔。
「……笹原さん」
「あ、お邪魔してます……」
 絵里はそう言って、軽く頭を下げた。


「冷蔵庫に柿あったから、切ってくるわね」と、岡さんのお母さんは言った。「ええと、笹原さん? 柿嫌いじゃない?」
「はい、好きです」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
 そう言い残して岡さんのお母さんは階下へ戻ってしまう。絵里は所在なさげにカーペットの上に座った。
「ランドセル、その辺に置いていいよ」
「ああ、うん……」 
 言われて、あわてて背負ったままだったランドセルを下ろす。
 二人のあいだにほとんど会話はなかった。そのくせお互いのことを気にしていて、ちらちらと目をやるが、いざ目が合うと、どちらからともなく視線をそらしてしまう。
 やっぱり来なければよかったかな、と絵里は思った。
 でも、心配だったし……。それに、あたしに原因があるのはわかりきったことだったから。
 絵里は、一度帰るふりをして小野さんと別れ、それから家に戻らずにそのまま岡さんの家へやってきた。小野さんにお見舞いに行くことを伝えれば、あたしも一緒に行く、と言うに決まっている。委員長以外の他の人のお見舞いなら、別にそれでもよかったのだけれど、……今回ばかりは、一人で来たかったのだ。
「……起きてて大丈夫なの?」
 と、絵里は言った。
「うん。今は熱ないし……」
「そっか、よかった」絵里は笑って、「岡さんのお母さんって、きれいだね」
「……別に……」
「あ」
 絵里は何かに気づいたような声を上げ、
「岡さんと、お母さんって、ひびきが似てるね」
「……?」
「ほら、岡さん、お母さん」
 似てるでしょ? という絵里の言葉に、
「……そうだね」
 岡さんはどうでもよさそうに言った。
 それきり二人は無言になった。カチ、カチ、カチ、と時計の針の音だけが大きく聞こえている。
 うう、気まずい……。
 絵里は、もう本題に入ることにした。心の中で深呼吸をひとつする。
「……岡さん、学校、いつ頃来れそう?」
「……」
「みんな心配してるよ」
「……してないよ」
 岡さんは俯いたまま言った。
「そんなことないよ」 
「……もう行かない」
「え?」
 絵里が思わず聞き返すと、
「……学校、もう行かない……」
 と、岡さんは言った。
「だって、いつまでもこのままでいるわけにはいかないでしょ」
「……とにかく、行かない」
 岡さんはそう言うと、頭から毛布をかぶってしまった。ごろんと寝返りをうち、絵里に背を向ける。
 ……何それ。
 絵里はなんだか腹が立ってきた。
「……小さい子じゃないんだから、そんなことできないよ」
「……」
「……」
 絵里は毛布にくるまる岡さんを見ながら思った。こうやって、誰か自分以外の人がわがままを言っているところ、あんまり見たことがないから、どうしていいのかわからなくなってしまう。
 自分のわがままは、自分のせいだから、とても楽だ。でも、こういうのは……、自分のせいにして終わらせることはできない。
 だってあたし悪くないもん。
 あたしだって、……たくさん、たくさん傷ついてるのに。
「それぐらいがんばってよ」
 と、絵里は言った。
「……あたしだって、学校、休んだりしないでがんばってるんだよ」
 返事はない。絵里はかまわずにつづけた。
「……あたしも、平塚くんにふられちゃったのに、……それでもがんばって、学校行ってるのに……」
「……」
「ずるいよ、そんなの……」
 最後の方は消え入りそうな声になった。
「……ふられたって、本当?」
 毛布の中から声が聞こえた。
「……嘘ついてどうするのよ……」
「……あたしのせい? ……あたしが、笹原さんの手紙、捨てたりしたから……」
「違うよ」
 と、絵里は言った。「岡さんは関係ない……。そのこととは関係ないよ。ただ、あたしがふられたってだけ」
「でも……」
「そんなに気にするなら、最初からしないでよ」
「だって、……だって、好きだったんだもん」
 岡さんは毛布の中で泣きじゃくりはじめた。
「あたしだってそうだよ……」絵里も、色々なことを思いだしてしまい、また悲しくなってきた。
 二人は声を上げて泣いた。
 やがて岡さんのお母さんが柿を持って上がってきて、泣いている二人を見て驚いていた。
 心配そうな表情のお母さんを部屋から追い出した岡さんは、手の甲で涙を拭きながら、
「……せっかくだし、食べようよ、ほら」
 と、絵里に柿をすすめた。
「……いただきます」と、絵里は手を合わせてから爪楊枝を取り、一口大に切られた柿を食べる。「……この柿、おいしいね。甘い」
 潤んだ眼は、まだ赤いままだった。
「これうちの庭でとれたやつだよ」
「えー……、すごい。いいなあ」
 ずっと団地に住んでいるので、岡さんの家のように、庭つきの一軒家には憧れがあった。
 しばらく二人は無言で柿を口へ運んでいたが、
「……ごめんね」
 と、岡さんがぽつりとつぶやいた。
「ほんとに、……あたし、……」
「……もういいよ」そう言って、絵里は溜息をついた。「……だって、あたしも平塚くんのこと好きだから、……委員長の気持ち、わからないわけじゃないし」
「……」
「……諦めなくちゃ、いけないのかなあ……」
 絵里のつぶやきに、
「……うん」
「時間が解決してくれるってよく言うけどさ……、そんなこと言われてもって感じ。いつまでかかるんだろう……」
 もし、新しく好きな人ができなかったら……。ずっと平塚くんのことを諦められなかったらどうしよう。
 このまま小学校を卒業して……、中学、高校、大学……。
 それでもずっと好きだったら?
 そんなことないよ、と絵里は首を振った。だって、それまで何年あるんだろう。ずっとこの気持ちが続くはずなんてない。
 でも……。
 それでもずっと好きだったら?
 死ぬまで……、と絵里は思った。
 もし、死ぬまで、ずっと、好きだったら?
「他の人のことを好きになろうにも、うちのクラスカッコいい男子いないよね」と、岡さんは言った。「まあ、平塚くんも顔がかっこいいわけじゃないけどさ」
 絵里はそれを聞いて少し笑ってしまった。
「委員長、そんな風に思ってたんだ……」
 なんだか、意外だった。
「……だから、委員長って呼ぶのやめてくれない?」
「それぐらいいいじゃん。委員長委員長委員長」
「……連呼しないでよ……」
 二人はどちらからともなく吹き出してしまい、笑った。
 泣いていた二人が心配で、外で聞き耳を立てていた岡さんのお母さんも、その笑い声を聞き、やがて安心して階段を降りていった。
 絵里は、帰る時に沢山の柿をお土産にもらってしまった。嬉しいけれど、ビニール袋にいっぱい入っているので、すごく重い。
 でも、委員長と話せてよかったと思う。なんだか、あたしも元気が出てきた。
 街灯の照らす夜道を歩きながら、委員長、明日学校来るかなあ……、と絵里は思った。
 来てくれたらいいけど……。やっぱり、あたしのせいで誰かが休んだりするの、気になるもん。
 明日になったら委員長と、前みたいに普通に話せるかどうかわからない。
 でも、……今日こうやって話ができたことは無駄じゃないと思う。
 それに、もうすぐ演劇祭の本番だ。せっかくだからクラスのみんなで成功させたい。
「……よしっ、がんばろ」
 絵里は小さい声で呟くと、柿の重さによろけながら家路をいそいだ。


  ※


 体育館でのリハーサルは、クラスごとに時間が決められている。五年二組の割り当ては、本番二日前の五時間目だった。
 体育館の窓は暗幕で覆われていた。すでに舞台の両脇にはひな壇が置かれ、合唱の子たちがスタンバイしている。その中には岡さんの姿も見えた。ちらちらとしきりに舞台の方を気にしている。
「ほら、中川さんもうちょっと右……。そうそう。ちゃんと背筋のばしたほうがかっこよく見えるわよ」
 先生が体育館の真ん中に立ち、全体を見ながら細かい指示を送っていた。体育館の床には、本番にパイプ椅子を置くために、カラーテープで印がつけられていたが、当然ながら、まだリハーサルなのでお客さんは誰もいない。
 出演者たちは、すでに衣装に着替え、舞台袖で自分の出番を待っていた。これから練習するのは、『ロミオとジュリエット』の、一番盛り上がるクライマックスのシーンだった。
 ロミオがジュリエットの死の知らせを聞き墓場へ急ぎ、そこに居合わせた、ジュリエットの婚約者パリスと決闘になる。
 パリスを殺した後、ジュリエットの死を確認したロミオは絶望のあまりその場で毒を飲んで自殺してしまう。しかし、ジュリエットは、牧師からもらった薬で四十二時間仮死状態になっていただけだった。眠りから目覚めたジュリエットは、目の前で死んでいるロミオを見て、ロミオの短剣を手に取り、愛する人の後を追うように、自らの命を絶つのだった……。
「はい、じゃあそろそろ行きましょうか」
 指示を終えた先生が言った。
 パンパン、と手を叩くと、照明係が体育館の明りを暗くした。同時に、舞台の照明がつけられる。
「第五幕、第三場……、ようい、ハイ!」
 その声と共に、パリス役の男子と、その小姓役の女子が舞台袖からゆっくりとした足取りで出てきた。小姓は、ボール紙でつくった花束と、大きな松明を手にしている。
 舞台には、本番では墓のハリボテが用意される手はずになっていたが、今は練習なので何も置かれていない。
『おい、その炬火をくれ、そして、お前はずっと向こうに離れていてくれ。
 いや、やはり炬火は消してくれ、だれにも見られたくないからな。
 あそこの櫟の下で横になって、このうつろな土地の面に、
 お前の耳をしっかりとくっつけておいてくれ。
 この墓地は、さんざん墓穴を掘ったため、地盤がゆるみ、脆くなっており、
 だれかがその上を歩いてくれば、すぐにお前の耳に響くはずだ。
 だれかこっちにやってくる足音が聞こえたなら、
 その合図にさっそく口笛を吹いてくれ。
 さ、その花をよこせ。言われたとおりにしてくれ。おい、行くのだ。』
 男子の声が響く。
 緊張しているのか、少し震えているようにも聞こえる。
『こんな墓地で一人になるなんて、怖くてたまらないや。
 だが仕方がない、逃げ出さずに頑張ってみよう。』
 小姓役の女子はそうつぶやくと、舞台の隅にしゃがみこみ、足音を聞くため床に耳を押し付けるようにした。
 台詞をつっかえたりすることもなく、今のところ劇はスムーズに進行していく。先生が緊張した面持ちでその様子を眺めていた。
 絵里は、舞台奥の壁際に垂らされた布の向こう側でスタンバイし、自分の出番を待っていた。
 布には納骨堂の絵が描いてあり、入口の部分に切って穴を開け、向こう側へ通り抜けることができるようになっている。ロミオ役の小野さんが、ジュリエットを探してそこから布の向こう側へ入ると、客席からは納骨堂の中へ入ったように見えるというわけだ。
 絵里は、布に隠れて観客に見えない位置に立ち、入ってきた小野さんにお姫様だっこをされて舞台に登場することになっている。ジュリエットはもうすでに薬を飲んで仮死状態になっているので、自分で歩くことはできないから。
 教室でその練習をした時に、
「あたしけっこう重いよ……」と、絵里は小野さんに言ったのだが、小野さんは細腕で楽々と絵里のことをお姫様だっこしてみせた。そのへんの男子よりも力があるんじゃないだろうか。
 舞台では、ロミオが登場し、パリスと言い争いをはじめたらしい。
『おい、貴様のその穢らわしい振舞をやめるがいい、モンタギュー!
 死んだ者にまでまだ復讐の手をのべようとするのか?
 貴様は追放の身だ、俺が逮捕する。
 おとなしくついてくるがいい、命はないものと覚悟するがいい。』
 小野さんはそれに答えて、
『死ぬ覚悟はできている。だからこそここへ私はきたのだ。
 まだ君は若いようだが、自暴自棄になった男に手出しはせぬものだ。
 頼むから私をこのままにして逃げてもらいたい、この死者たちのことを考え、
 死ぬことの恐ろしさを知ってもらいたい。さ、お願いだ、
 私を怒らせるのは止してくれ、でないと、
 さらに罪を犯す羽目に私が陥らねばならぬのだ。さ、立ち去ってくれ!
 私は君を自分以上に愛している、嘘ではない、
 自分自身を亡きものにする覚悟で私はここにきている。
 ぐずぐずしないで、早く行ってくれ。そして、他日、人にも話すがよい。
 ある狂人に逃げろと言われて命拾いしたが、奇特な狂人もあったものだ、と。』
 朗々とした声がひびいている。堂々と台詞を言うその姿まで目に浮かぶようだった。
『そんな頼みがきかれるものか。
 貴様は重罪人なのだ、俺はあくまで逮捕する。』
『まだ私を怒らせようというのか? それじゃ、覚悟するがいい!』
 そこで突然、体育館のスピーカーから音楽が流れてきた。ロミオとパリスの決闘シーンにふさわしい、勇敢でかっこいい曲だ。
 絵里は何に使われている曲なのか知らないのだけれど、音響担当の男子が選んできたらしい。
『大変だ! 斬り合いだ! 夜警を呼びに行かなくっちゃ!』小姓の声と、走って舞台袖の方へ足音が消えていく。
 剣を振り回し、動き回る気配と、二人分の荒い息がつたわってくる。
 しばらくのあいだ激しい足音が聞こえていたが、急にそれが止んだ。そして、音楽も唐突に止まる。……ロミオが、パリスを刺し殺したのだ。
 そろそろ、あたしの出番だ……。
 絵里は落ちつこうと、大きく深呼吸をする。
 すると間もなく、布に描かれた納骨堂の入口を通り抜けた小野さんが、急に目の前にあらわれた。
 台本通りだとわかっていても、驚いて声を出しそうになる。
 小野さんは、軽くウインクをすると、自分の人差し指を口元に当てて、シーッ、というジェスチャーをした。絵里はそれを見て少し落ちつきを取り戻し、その場に仰向けに寝転がる。小野さんはしゃがみこみ、両手で軽々と絵里の体を持ち上げた。
 小野さんは絵里をお姫様抱っこしたまま、舞台へ戻った。煌々と光る照明の下、舞台の真ん中に絵里の体を横たえて、
『ああ、ジューリエット、
 なぜそんなにまだ綺麗なのか? もしかしたら、
 あの死神が人間でもないのに妙に色気づいたのではないか。
 あの痩せた恐ろしい姿の怪物めが、この暗い所で、
 お前を愛妾にしようとして囲っているのではないのか。
 それを思うと俺はぞっとする。だから、お前といっしょにここに留まり、
 この仄暗い夜の宮殿から二度と外へは出ないつもりだ。』
 絵里は、舞台に横たえられたまま、薄目を開けて小野さんの顔を見た。動き回ったせいか、照明のせいなのか、暑いらしく小野さんの汗が絵里の頬にぽつぽつと落ちる。
 でも、そんなことも気にならないくらい、台詞を述べ立てる小野さんはすてきだった。
 いつもみたいにふざけてないで、こうやって真剣な顔してたらかっこいいのにな……、と絵里は思った。
『ああ、俺の眼よ、最後の一瞥を投ずるがよい。俺の腕よ、最後の抱擁を楽しむがよい。
 俺の唇よ、呼吸の通路たる唇よ、すべてを独占しようとする死との
 永遠の契約のしるしとして、悪びれることなく接吻するがよい。
 さあ、来い、無常な導き手よ、さあ、来い、おぞましい案内人よ、
 さあ、来い、死に物狂いの水先案内人よ、一切を打ち砕く岩礁に、
 荒海に疲れ果てたこの船を、この肉体をいっきょにたたきつけ難破させるがよい!
 この杯を、わが恋人のために、……乾杯!』
 その言葉とともに、小野さんは、懐に隠していた毒薬を一気にあおった。
『おお、あの薬種屋の言ったとおりだ!
 薬がもう利いてきた。――死ぬ前に、最後の接吻を!』
 小野さんは苦しそうに膝をつき、絵里の頬に唇を押し当てる。舞台袖で見ていた数人の女子が黄色い声を上げるのが聞こえた。
 そして小野さんは、絵里のすぐそばに、重なり合うようにして倒れた。
 しばらく舞台は静けさに包まれていた。絵里は、すぐそばにいる小野さんの、体温と呼吸を感じていた。
 絵里は目を閉じたまま考えていた。
 ……小野さん、キスするの、練習の時にフリだけでいいって言ってたのにホントにした……。
 まあ、唇じゃないからいいけどさあ……それに、女の子同士だし、ノーカンかな。
 やがて舞台袖から修道士役の男子を連れて、さっきの小姓が戻ってきた。
『おお、この血は! この墓所の入口に
 点々と滴っているこの血はどうしたのだ?
 この平安の場所に不気味な色を放ち、
 血糊にまみれて横たわる主なき二本の剣、……これはどうしたのだ?』
 そして、ロミオとパリス、ジュリエットの三人が倒れているのを見つけ、騒ぎ立てはじめた。
『おお、ロミオ! その蒼白い顔は! ――いや、ほかにもだれかいる、パリス殿まで?
 しかも、血に染まって?――ああ、何という時の悪戯だ。
 こういう痛ましい事件を一時にしでかすとは!――』
 その台詞を聞き、絵里はゆっくりと起き上がろうとした。ここで、四十二時間が過ぎ、薬の効き目が切れたジュリエットが、起き上がり、ロミオが死んでいるのを見つけ、自分もその後を追うように自殺することになる。
 絵里はふと思った。
 お芝居じゃなくて、もし本当に今死んでしまったら、どうなるだろう。
 ――もし、死ぬまで、ずっと、好きだったら? 
 ……死んだら、
 死んだら、平塚くんのことも、忘れられるだろうか?
 ……平塚くんを好きだったこと、苦しい気持ちも辛いことも全部、……忘れられるのだろうか? 
『……ジュリエット?』
 いつまでも起き上がらない絵里を不審に思ったのか、修道士役の男子が怪訝そうな声を上げた。
 絵里は動かなかった。
 本当にこのまま、……
 このまま死んでしまったら……。
「……絵里ちゃん?」
 すぐ隣で倒れている小野さんが、耳元でささやいた。
 それでも絵里は動かない。
 ぎゅっと眼をつぶり、照明に照らされ、舞台の上にずっと倒れたままでいる。


「いやー、迫真の演技だったねー」
 屋上に出ると、小野さんは金網のそばに立ち、振り返ってそう言った。絵里は何も答えずに、空を見上げた。もうすでに陽は落ち、辺りは暗くなり始めている。小さな星がひとつ、ふたつちかちかと瞬いている。
 絵里はゆっくりと歩き、小野さんの隣に並んだ。 
「名女優じゃん」
 と、小野さんは笑った。
「……そんなことないけど」
「もう明後日本番だもんね」
 と、小野さんは言って、大きく伸びをした。絵里はその横顔を見ながら、舞台に立っている時とはほんとに別人みたい、と思った。
「早いねー、……あっという間だった気がする」
「こないだもそんなこと言ってたよね」
 絵里は金網に手をかけ、 
「ああー、……本番緊張するよー」
 言いながら、ガシャガシャと金網を揺らした。
「絵里ちゃんなら大丈夫だよ」
「……根拠ないじゃん、それ」
「平気平気」
 小野さんは言った。「初めて会った時、覚えてる?」
「うん」
「神社で言ったあたしの予言、当たったでしょ?」
「……」
「忘れちゃった?」
「ううん」
 忘れるわけない。
 ――きっと絵里ちゃんジュリエット役できるから。あたしが保証するよ。
 確かにその通り、小野さんの予言通りにあたしはジュリエット役をやることになった。でも……。
「だから、あたしが大丈夫って言うんだから、大丈夫」
「……ありがとう」
 と、絵里は言った。それから、急に思い出したように、
「ていうか、小野さんさっきほんとにキスしたでしょ」
「あー」
 小野さんはごまかすように頭をかいて、あはは、と笑った。
「いや、あーじゃなくて……」
「別にいいじゃん。ほっぺだし」
「まあいいけど……わたし、いちおうファーストキスだったのに……唇じゃないけどさ」
 そこまで言って、思う。
 もし平塚くんがロミオ役だったら、……いや、さすがにキスはしないだろうけど、あんなシーンがあったってことだもんね。あまり深く考えてなかったけれど、……そんなの、それこそどきどきして死んでしまうかもしれない。
「絵里ちゃん、なんか顔赤いよ」
「え、……そんなこと」
 ないけど、という声は小さくてよく聞き取れなかった。
 二人はしばらく黙ったまま、金網ごしに校庭を見ていた。風が出てきた。少し肌寒いように感じる。
 絵里には、ずっと心に引っかかっていたことがあった。
「……あのさ、小野さん?」
「うん?」
「……」
 口に出すのを躊躇い、眼を伏せる。
「どしたの。なんか、言いづらいこと?」
「小野さんさあ、……あたしが平塚くんのこと好きだって、平塚くん本人に言ったでしょ」
「……え、だって……」
 小野さんはめずらしくうろたえていた。
「あの、平塚くんちに泊まった日。……誰にも言わないって約束したのに」
「……だって、平塚くんは知ってるでしょ? 絵里ちゃんから手紙もらったんだからさ」
 小野さんは言い訳をするような口調で、
「だから、……絵里ちゃんの気持ち知ってて、どうして何も返事してあげないのって、絵里ちゃんがかわいそうじゃんって、……」
 あ、そうか……。
 小野さんは、委員長があたしの手紙を机から抜いてしまったことを知らないんだ。
 だから、手紙が届いてないことも知らないんだった。
「そっか、ごめん。言ってなかったよね……」
「……?」
「あの手紙、届いてなかったんだ」
 と、絵里は言った。
「あたしが平塚くんの机と間違えて、委員長の机に入れちゃってさ……。緊張してたのかな。それ、こないだ委員長が教えてくれたの。あたしの机に入ってたよって。ずっと言おうと思ってたけど、……なんて切り出していいのかわからなかったんだって」
 絵里は、委員長のことを言わなかった。
 だって、小野さんと委員長がそのせいで気まずくなったりしてほしくないから……。
「だから、平塚くんはあの手紙読んでなかったの」
「……」
「あ、でも別に小野さんのこと責めてるわけじゃないよ」
 絵里はあわてて手を振って、
「もう、あたし自分の口で告白したんだ。……でも、やっぱりだめだった。友達としか見れないって、ふられちゃった……。だから、手紙が届いてても届いてなくても、同じようなものだったし」
 へへへ、と絵里は照れくさそうに笑った。小野さんはその顔を黙って見つめていたが、
「……あたしのせい?」
 と、小さくつぶやいた。
「え?」
「あたしのせいで、……二人が上手く行かなかったの?」
「あ、ううん、だから違うってば。……そんなことないよ」
 絵里はそう言いながら、次の言葉を探した。目の前の小野さんが、顔をゆがめ、泣きそうな表情をしている。
 こんな顔をしてる小野さん、今まで見たことない。
 だから見ていられずに、絵里は視線を反らし、暗い空を見上げた。
「……小野さん、神社で言ってたよね。
 正直な気持ちをちゃんと言わないと、かなうものもかなわなくなっちゃうよ、……って。
 あたし、この一ヶ月くらい、その言葉に支えられてた気がする。
 上手くいっても、いかなくても、ちゃんと自分の気持ちを言葉にするのって大事なんだなあって思ったよ」
 と、絵里は言った。
「だから、小野さんのせいなんかじゃない。むしろ感謝したいくらいだよ。
 ……小野さんのおかげで、あたし、頑張れたんだから……」
 ね? と、絵里は隣にいる小野さんに笑顔を向けたが、
「……あれ?」
 自分の眼を疑う。そこには誰の姿もなかった。
 え、ちょっと待って……、今小野さんいたじゃん。急にどこ行っちゃったの?
 反射的に絵里は金網越しに校庭を見下ろした。けれど、すぐに思いなおす。ここから落ちるわけないよ。だって、金網張られてるんだから……。絵里はそこで初めて、きょろきょろと辺りを見回した。
 屋上には、絵里のほかには誰もいない。さっきまで隣で話していた小野さんの姿は影も形もなくなっていた。
「……」
 ……どうしたんだろう。拗ねて、先に帰っちゃったんだろうか。それならそうと一言くらい言ってくれればいいのに……。
 絵里はもう一度周りを見渡してから、
「……あたしも、もう帰ろうかな」
 と、言った。
 ちぇっ。一人でしゃべってて、なんだかバカみたいだ。
 絵里は校舎の中に入ると、非常階段を降りて教室へ戻り、置きっぱなしにしていたランドセルを背負うと、昇降口へ向かった。
 誰もいない校舎の中は薄暗く、時おり非常灯の明りが目に入る。自分の足音がやけに大きく聞こえる。
 こんな時間なのに誰かまだ残っているのか、どこかの教室から笑い声が聞こえてきた。
 絵里は歩きながら、なんだか頭がすっと冴えわたるのを感じていた。いつもなら遅い時間の学校は少し怖いのだけれど、今日はそんな風には思わなかった。
 なんだっけ、この感じ……、と、絵里は思った。たしかに、どこかで覚えがある。この感覚、前にもこんなことがあった気がする。
 階段の踊り場で立ち止まり、足を止めて考える。
 そう、……
 ……なんだか、ひどく長い夢から覚めた時のような……。
 昇降口まで来ると、そこには詩織ちゃんが待っていた。
「あ、やっと来た……。待ちくたびれたよ」
 と言って、笑顔を見せる。
「詩織ちゃん、待っててくれたの?」絵里は驚きの声をあげた。「……ごめんね、知らなくて……」
「ううん。あたしが勝手に待ってただけだから。……たまにはいっしょに帰ろうと思ってさ」
「そっか」
「こんな時間まで学校にいるの、ちょっとどきどきするよね」
「あ、そういえば……」
 絵里は思い出したように、
「あのさ、詩織ちゃん、小野さん見なかった? さっきまで一緒にいたんだけど、一人で帰っちゃったみたいで……」
 その言葉に、詩織ちゃんは不思議そうな顔になる。
「……?」
「どうかした?」
 絵里が訊くと、
「……それ、誰?」
「え?」
 ……詩織ちゃん、何言ってるの?
 絵里にはその言葉が理解できなかった。
 戸惑う絵里を尻目に、詩織ちゃんは首をかしげて、
「小野さんって、絵里ちゃんの知り合い? ……誰だっけ?」
 と、言った。
 どこからか、五時を告げる鐘が聞こえてきた。