ロミオとジュリエット 2話

 第二話


「『……もう一度ものを言ってください、私の天使!
 私の頭の上で夜を照らしているあなたはまさしく天使、――
 あなたの姿は、ゆっくりと流れる雲にのり、
 大空の面を翔けてゆくのを仰ごうと
 後じさりする人間どもの白眼がちな眼に映る、
 あの翼をもった天の御使の姿と全く同じだ。』」
 小野さんの、朗々とした声が教室の中にひびいている。
「……、あ、ええと……」絵里が口ごもっていると、そばで見ていた女子がじれったそうに声をかけた。
「ほら、笹原さん、台詞台詞」
「あ、……『おお、ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの……』……」
「……はあ」
 と、女子は大げさに溜息をつく。「声、小さくて聞こえないよ」
「ごめんなさい……」
 絵里は台本を胸に抱きしめたまま、申し訳なさそうにつぶやいた。
 放課後、五年二組の教室ではここのところ、毎日『ロミオとジュリエット』の劇の練習が行われていた。絵里と小野さんが黒板の前に並んで立ち、台詞の読み合わせをしていて、周りには女子が二三人その様子を眺めている。机と椅子は後ろに寄せられ、他に残っている子たちは舞台の書割や小道具をつくっている。絵の具のパレットや水入れがいくつも置かれ、カッターで段ボールを切る音がたえずしていた。
 それでも、残っている生徒は半分くらいだろうか。他に用事のある子や塾のある子はもうすでに帰ってしまっていた。
「小野さんは完璧なんだけどなあ」
 体育すわりをして二人の読み合わせを見ていた女子の一人が言った。
「……」 
「とりあえず今日はもう終わりにしよっか。……笹原さん、もっと元気よく台詞言わなくちゃだめだよ。恥ずかしがってる場合じゃないんだから、本番はもっとお客さんいるだろうし」
「うん……」
「せっかく選ばれたんだから、ちゃんとやりたいでしょ?」
 あたしだって、好きで選ばれたわけじゃないのに……。絵里はそう言いたかったが、黙っていた。
 練習を終えた絵里と小野さんは、図書室で二人を待っていた詩織ちゃんと合流した。いつものように、三人で帰り道を歩く。
「もう九月半ばなのに、まだ全然暑いね」
 詩織ちゃんは腕で額の汗を拭いながらそう言った。あちこちから蝉の鳴き声が聞こえている。まだ風鈴を軒先にぶらさげている家がいくつもあった。
「……」
「なんか、絵里ちゃん元気ない?」
「……、もう練習やだよ……」と、絵里は言った。「いいなあ、詩織ちゃんは合唱だから、台詞とかないし……」
「絵里ちゃん、国語の時間の朗読は上手いのにね」
「……本読みと、演技するのは違うよ」
「ねえねえ」
 さっきからずっと黙っていた小野さんが口を開いた。
「どうしたの?」
「詩織ちゃんちってスポーツ用品店なんでしょ? あたし、まだ上履き買ってないからさあ、買いに行ってもいいかな」
「もちろん、大歓迎だよ」
 と、詩織ちゃんは言った。「最近お客さん少ないからねえ、毎年用具注文してくれてた、地域の野球チームも去年人が少なくてなくなっちゃったし……」
「大変なんだね」
 ていうか、小野さんまだ上履き買ってなかったのか。
「商店街はどこも厳しいんだよねー」
「じゃあさ」
 小野さんが振り返り、「いったん帰ってランドセル置いたら、商店街の入口に集合ね」
「りょーかい」
「じゃああたし、店で待ってるね」
 酒屋の角まで来ると、方向の違う小野さんとはここでいつも別れることになる。いつも見かける酒屋の女の子が、店の前の道路にチョークで落書きをしていた。
「じゃあまた後で」
「ばいばーい」
 小野さんは大きく手を振ってから、駆け出して行く。
「ねえ、小野さんてどこに住んでるの?」と、詩織ちゃんが言った。
「え、知らない」
「あ、そうなの? 絵里ちゃん仲いいから知ってるんだと思ってた」
 そういえば、どこに住んでるかなんて気にしたことなかったな……。絵里は、遠ざかっていく小野さんの後ろ姿を見つめた。


 一時間後、絵里は商店街の入口で小野さんを待っていた。
「……遅い……」
 絵里が着いてからもう三十分くらいは経っただろうか、小野さんはいっこうにやってくる様子がなかった。あまりに遅いので近くを探していると、本屋の店先で雑誌を立ち読みしている後ろ姿を見つけた。
「何やってるのよ、……ほら、詩織ちゃん待ってるから、早く行くよ」
「今いいとこなのに……」
 ぐずる小野さんの手を無理やり引っ張って歩き出す。商店街は夕飯の買い物客でごった返していた。惣菜屋の前には列ができ、魚屋のお兄さんが絶えず通りに声をかけ、みんな肩がぶつかるくらいの近さで歩いていた。街灯に設置されたスピーカーからは、昔のヒット曲がオルゴールで流れている。
「うわー、すごい人……」
 小野さんが感心したようにつぶやいた。
「あたしここの商店街初めて来たけど、にぎやかだねえ」
「いつもこんなもんだよ」
 と、絵里は答えた。さっき聞いた詩織ちゃんの話が思い出される。じゅうぶん繁盛してるように見えるけど、きっと、外から見えないところで苦労があるのだろう。自営業も大変なんだなあ。
 道の真ん中で話していた二人は、自転車を押している人にベルを鳴らされ、あわてて脇によけた。この間までブティックだったはずの場所は、いつの間にかコインパーキングになっていて、車止めに座り込んだ男の子たちが携帯ゲームで遊んでいる。詩織ちゃんの家、「ヨシカワスポーツ」は絵里たちが入ってきたのとは反対側、荒川の方へ抜けていく入口のすぐそばにある。二人は人ごみをすり抜け、やがて店の前までたどり着いた。
「……あれ?」
 絵里は不審そうな声を出した。店の入口にはシャッターが下りていて、どう見ても営業している様子はない。
「詩織ちゃん、まだ帰ってないのかなあ?」
「でも、もうずいぶん経ってるけど……」
 二人があれこれ言い合っていると、
「ごめんねー」
 聞き覚えのある声が上から降ってきた。店の二階より上はアパートになっていて、その一室のベランダから、柵にもたれかかるようにして、詩織ちゃんがこっちを見下ろしている。
「ちょっと事情があって……、悪いけど裏から回ってきてくれる?」
 詩織ちゃんのその言葉に従い、二人は店の裏側へ回る。鉢植えが置かれたクーラーの室外機の横に、直接アパートへ上がるための外階段があった。こっちこっち、と廊下で待っていた詩織ちゃんに手招きされる。
 詩織ちゃんの家に来るのは久しぶりだった。一、二年生の時は同じクラスだったのでよく遊んでいたが、三年のクラス替えで別のクラスになり、それ以来お互いの家を行き来することはほとんどなくなってしまった。
 部屋の冷房をつけた後、詩織ちゃんは飲み物を取りに台所へ行った。絵里はきょろきょろと部屋の中を見回した。
 壁には、絵里の知らないアイドル歌手のポスターが貼ってあった。詩織ちゃん、こういうの好きだったんだ、知らなかったな。絵里はなんだか落ちつかず、床に放りだされていたクッションを引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。小野さんは、真剣な表情で、本棚に並んだ少女漫画を吟味している。
「お待たせ」麦茶のグラスと、おやつのカステラがのったお盆を手に詩織ちゃんが戻ってくると、
「ねえねえ、これ読んでもいい?」
 小野さんは待ちきれない、といった様子でそう言った。
「適当に読んでていいよ」と、詩織ちゃんは言った。それから絵里にはい、とグラスを手渡す。絵里はお礼を言って受け取り、さっきから気になっていたことを訊いてみた。
「あの、お店、どうかしたの?」
「ああ、大したことじゃないんだけどね」と、詩織ちゃんは不満そうに眉根を寄せた。「今日お父さんとお母さんが町内会なんだけど、お兄ちゃんが店番頼まれてたのにほっぽってどっか行っちゃったみたいでさあ……。まったくもう、いつもこうなんだから」
 少しはあたしの身にもなってよね……、とぶつぶつつぶやいている。絵里は少し笑った。
「だから、ちょっと今日は上履き出してあげられないかも、ごめんね」
 詩織ちゃんの言葉に小野さんはうんうんと頷いていたが、漫画から顔も上げない。ちゃんと話を聞いているのかもあやしかった。
「……そういえばさ」
 ふと思いつき、絵里は切り出した。
「どうしたの?」 
「最近、委員長なんか変じゃない?」
 詩織ちゃんはベッドの縁に腰かけ、麦茶を一口飲んでから、
「そう? ……気づかなかったけど……」
 絵里がこの間のトイレでの一件を話すと、うーん、と首をひねっていたが、
「そっか。……どうしたんだろねえ、そういえば最近、なんか元気ないような気もする」
「……わかんない。でも、気になるっていうか……ちょっと心配」絵里がグラスを床に置くと、カランと氷の音がした。
「うーん」 
 詩織ちゃんは腕組みして悩んでいたが、急に何かを思いついたような表情で悪戯っぽく笑い、
「でも、絵里ちゃんは自分の心配した方がいいんじゃない?」
 と、言った。
「……?」
「ほら、ジュリエット」
「もう、それ思い出させないでよ……」
 がっくりと肩を落とす。これからは、ほとんど毎日放課後には劇の練習がある。絵里は、夏休み前とは別の意味で学校に行くのが憂鬱だった。
 絵里は、真剣な表情で漫画の頁をめくっている小野さんの横顔を見た。小野さんは、約束通り平塚くんとのことを秘密にしてくれているようだった。
 ――でも、笹原さんすごく似合ってるよ。
 思い出してしまい、絵里は勢いよくぶんぶんと首を振った。もう、平塚くんどうしてあんなこと言うんだろう……。
「……どうかした? 顔真っ赤だよ」
「……」
「元気だしなよ」詩織ちゃんはフォークでカステラを小さく切り、絵里の口元に差し出した。「あーん」
 絵里が思わず口を開けると、詩織ちゃんはカステラをその中へ入れた。
 もぐもぐもぐ……。
「……おいひい」
「ここのおいしいんだよ。もらいものだけどね、めったにうちじゃ買わないから」
 詩織ちゃんは笑って、
「……でも真面目な話、小野さんにコツ教わってみたら? 小野さん台詞もちゃんと覚えてるし、すごいカッコいいじゃん」
「うーん……」
 絵里は小野さんの隣に座り、漫画の頁をのぞきこんだ。
 ちょうど主人公の女の子が、好きな同級生の男の子に告白する場面だった。見開きだけなのに、思わず引き込まれてしまう。続きが気になり、絵里が頁をめくろうと手をのばすと、小野さんがその前に頁を閉じてしまった。
「よし」
 小野さんは絵里の顔をじっと見る。
「……な、何?」
「ショック療法だな」
 そう宣言するようにつぶやくと、ニヤリと笑った。
 なんか嫌な予感がする……。絵里はその笑顔を見て、不吉なものを感じた。
 結局、六時過ぎになっても詩織ちゃんのお兄ちゃんは帰ってこなかったので、二人はそのまま帰路についた。
 外は風もなく、ひどく蒸し暑かった。二つ三つ先の通りから、豆腐売りのラッパの音が聞こえていた。


  ※


 ミーンミンミン、ミーン……。
 荒れるにまかせた庭の、葉むらのあちこちから蝉の声が聞こえている。絵里はさっきから、インターホンの前で立ち尽くしていた。指をのばし、ボタンを押そうとするのだが、しばらくためらってから、引っ込めてしまう。それをもう何度も繰り返していた。
 はあ、……すごい緊張する。
 ばれないようにこっそり後をつけ、家の前まで来たことはあったが、実際に家に上がることになるなんて、思ってもみなかった。
「……やっぱり帰ろう」
 急に具合が悪くなったことにして、みんなには後で謝ろう。そう決めて、絵里が踵を返しかけた時、
「わっ」
 驚いて思わず声が出てしまう。いつの間にか足元には犬がいて、ハッハッハッ……、と暑そうに舌を出したまま、絵里のことを見上げていた。なんだか恥ずかしくなる。いつから見られていたんだろうか。
 あ、この子……、夏休みに平塚くんと会った時、いっしょにいた子だ。たしか、シバとかいったっけ。絵里はその場にしゃがみこみ、シバと目を合わせるように、その顔を覗きこんだ。 
 やっぱりかわいい、撫でても怒らないかな……。絵里がおそるおそるシバの背中に手を回そうとした時、
「あれ、笹原さん?」
 突然、後ろから声をかけられた。振り返ると、スーパーの袋を提げた平塚くんが門を開けて庭へ入ってくるところだった。絵里はあわてて立ち上がる。
「あ、ええと」
「めんつゆなかったから、買いに行ってたんだ」と、平塚くんは言った。「……ケンジたちがいるはずだけど、チャイム聞こえなかったのかな」
「……」
「シバ、おいで」
 シバに声をかけ、平塚くんはそのまま庭の奥へと歩き出した。絵里もその後から母屋の横へ回り込む。ぼうぼうと伸びた下生えのあいだに、割れた鉢植えや皿、土まみれの洗濯バサミなどが転がっている。草の匂いが鼻をつく。平塚くんはそのまま、縁側から母屋へ上がった。
「ごめんね、ここから上がって」
「あ、うん。……お邪魔します……」絵里はサンダルを脱ぎ、きちんと揃える。シバは縁側の下にもぐりこみ、ごろりと腹ばいになった。
「なんかそこが涼しいみたい」と、平塚くんは言った。
「……、かわいい」
「そういえば、夏休みにも散歩してる時に会ったよね」
 磨りガラスの引き戸を開けると、廊下を挟んで目の前に障子戸がある。絵里は平塚くんについて畳敷きの居間へ入った。
 左手にある仏壇の前では、詩織ちゃんと石浜くんが、足つきの将棋盤を挟んで座っていた。 
「あ、……詩織ちゃん。もう来てたんだね」
「絵里ちゃんやっほー」
 と、詩織ちゃんは片手を上げた。石浜くんは相変わらず怖い顔をして、ぶつぶつ何事かをつぶやいている。
「詩織ちゃん、将棋指せるの?」
「うん。お兄ちゃんのゲームでやったことあるから」
「……ゲーム脳
 と、石浜くんがつぶやくが、
「そのゲーム脳に負けてるのは誰よ」
「……」
 石浜くんは何も言い返せなかったらしく、また腕組みをして唸り始めた。
「……小野さんは?」
「まだ来てない」
 絵里の問いに、詩織ちゃんは首を振る。
「ええ、あの子が言いだしっぺなのに……。しょうがないなあ、もう」
「笹原さん、もう昼ごはん食べた?」平塚くんが訊いた。
「ううん、まだ」
「じゃあ、素麺食べようよ。茹でるからちょっと待ってて」
「あ、あたしも手伝うよ」
「悪いからいいよ、一人でも大丈夫だし」
「でも……」
 絵里がためらっていると、
「ありがとう。じゃあ、お願いしようかな」と、平塚くんは笑った。とはいえ、絵里のやったことといえば、グラスに人数分の麦茶を注ぐことと、お膳を台拭きで拭くことくらいだった。平塚くんは素麺を茹でると、普段から料理をしているのだろうか、薬味のネギを手際よくみじん切りにした。絵里は氷をグラスにいれながら、感心した様子でその手元を眺めた。
 詩織ちゃんと石浜くんの対局が終わる頃には、昼食の支度が整った。手を合わせていただきます、と声を揃えてから食べ始める。和室の障子戸に庭木の影が映っていた。
「薄かったらつゆ足してね」
 と、平塚くんは言った。
「うん、……大丈夫」
「ねえ、絵里ちゃん聞いてよ」詩織ちゃんは素麺をすすってから、手にした箸で石浜くんの顔を指し、「この人、すごい弱い」
「行儀悪いから、箸こっちに向けるな」
 石浜くんは嫌そうな顔のまま麦茶を飲んだ。
「石浜じゃあ相手にならないから、平塚くん後で指そうよ」
「いいよ」
「正人、こいつをこてんぱんに負かしてやってくれ」
「了解」と、平塚くんは言った。「さっきちょっと見たけど、まあ、たぶん勝てると思う」
「お、言ったな」と、詩織ちゃんは不敵に笑った。「まあ、誰かさんほど簡単に勝たせてもらえなさそうだけどね」
「……」
 絵里は将棋を知らないので、話の輪に入ることができずに、黙々と素麺をすすっていた。
「笹原さんもやってみる?」
 平塚くんは、急に絵里に話を振った。
「え、あたし?」戸惑いつつも答える。「でも、……むずかしそう」
「大丈夫だよ、ケンジだってできるんだから」
「そうそう」
「……お前ら、俺のことなんだと思ってるんだよ」
 みんなで食器を片付けた後、詩織ちゃんと石浜くんはまた将棋を指し始めてしまった。
 絵里と平塚くんは、それをしばらく観戦していたが、それに飽きると並んで縁側に座り、庭を眺めた。シバは起き上がり、庭のあちこちを歩き回っている。
「いちおう、劇の練習しに来たはずなのになあ……」
「やっぱり転校生、ちょっと遅いね」と、平塚くんは言った。「場所わかんないのかもしれない。迎えに行ったほうがよかったかも」
「……でもあの子、そういうところあるんだよね、ルーズっていうかさ」
 体育座りの膝の間に顔をうずめ、絵里は溜息をつく。シバが近寄ってきて、前足を縁側にかけた。
「この子、上がりたがってるのかな」
「ほんとに、笹原さん気に入られてるみたい。はじめ、ケンジとか吠えられて大変だったんだから」
 そう言うと平塚くんは立ち上がり、
「足拭いてやらなくちゃ。ちょっと雑巾とってくるね」
「うん」
 平塚くんの姿が廊下の角を曲って見えなくなると、絵里はおそるおそるシバの背中を撫でた。シバは気持ちよさそうにされるがままになっている。絵里はしばらくそうしていたが、
「……あたし、なんでこんなところにいるんだろうな」
 と、不意につぶやいた。
 それに答えるように、シバが小さく唸り声を上げた。


 そもそも、劇の練習をしようと言い出したのは小野さんだった。昼休み、絵里と小野さんは校庭の鉄棒に腰かけて話をしていた。グラウンドでは、五六年の男子が混ざってサッカーをしていて、騒がしい声があたりに響いている。
「絵里ちゃん、特訓した方がいいよ」
「……特訓?」
 この子、また変なこと言い出した……。絵里は怪訝な顔で小野さんの方をうかがう。
 小野さんは鉄棒に足をかけたままぐるりと回り、逆さになった。
「頭に血のぼらない?」
「平気平気……、特訓は特訓だよ。人前に出ても緊張しないようにさ。本番なんて、先生たちとかお客さんにも見られるんでしょ? このままじゃあとても無理だよ」
「……」
 そう言われると、返す言葉もない。
「……特訓ていっても、何するの?」
 絵里は訊ねたが、小野さんは何も答えず、じっと前を見つめている。その視線の先には、ボールを追ってグラウンドを駆け回る平塚くんの姿があった。絵里もしばらくその様子をじっと眺めていた。
 平塚くんが近くまで来た時、二人に気づいたらしく小さく腰の辺りで手を振った。
「平塚、ボール行ったぞ!」男子の声が飛ぶ。
「え?」
 平塚くんはとっさに飛んできたボールをトラップしようとしたが、間に合わず思い切り顔に当たってしまった。絵里は驚いて固まってしまう。
「おい、大丈夫か?」
 痛そうにうずくまる平塚くんの周りに、近くにいた石浜くんや他の二三人が駆け寄ってきた。平塚くんは顔を抑えている。石浜くんが落ちた眼鏡を拾い、手渡した。
 大したことはなかったようで、すぐにまた試合が再開された。自分のポジションに戻っていく平塚くんを見ながら、
「……平塚くんて、けっこう鈍くさいよね」と、小野さんは言った。「神社でも、あたしのサンダル当たってたし」
「あれは小野さんが飛ばしすぎたのが悪いんじゃん」絵里は反論する。「それに、平塚くんは鈍くさくなんかないもん」
「……」
 小野さんに疑わしげな視線を向けられ、
「……まあ、ちょっとぐらいは、そういうとこあるかもしれないけど……」と、絵里は不本意そうにつづけた。
 陽射しで熱せられた鉄棒は、ずっと座っていると、だんだんお尻が熱くなってくる。小野さんはくるりと一回転した後、鉄棒から飛び降りた。うーん、と大きく背伸びをしてから、絵里の方へ振り向いて、
「絵里ちゃんさあ、平塚くんのどこが好きなの?」
「ちょっと、声大きいよ」
「誰も聞いてないから大丈夫だよ」
 その言葉どおり、校庭では沢山の生徒たちが遊んでいるが、誰も二人には気をとめていなかった。
「……」
 それでもそんなこと、一言で言えるはずもない。
「まあそれはいいんだけど……、だから、平塚くんといっしょに劇の練習すればいいじゃない」
「え、……どうしてそうなるの?」
「好きな人に見られてたら緊張するでしょ? それに比べたら、他の人の前で演技するのなんて楽なもんだよ」
「やだ、絶対無理」
 そう言ってから、絵里も鉄棒から飛び降りた。「……それに、平塚くんに迷惑だよ」
「一緒にいられるし、人前であがらないように、慣れる練習にもなるし、一石二鳥じゃない」
「とにかく、無理だからそんなの……」
「ええ、なんでよう。せっかく絵里ちゃんのためにちゃんと考えたのに」
 唇を突き出し、ぶーぶー、とブーイングをする小野さん。
 二人はしばらく言い合いをしていたが、やがて絵里は無理やり話を切り上げて校舎へ入っていく。小野さんも不満そうに、その後につづいた。
 その晩、お風呂に『ロミオとジュリエット』の文庫本を持ち込んで、絵里が一人で台詞の練習をしていると、リビングの電話が鳴った。すぐにお母さんが子機を持って脱衣所へ入ってきて、
「絵里、吉川さんから電話よ」
「あ、うん。後でかけ直すって言ってくれる?」
「はいはい……」
 絵里は浴槽の蓋に文庫本を置くと、肩までお湯につかった。……詩織ちゃん、何の用だろ? 電話なんていつもしてこないのになあ。
 お風呂から上がり、バスタオルを髪に巻いたまま、子機を部屋に持ち込む。長電話しないようにね、とお母さんに釘を刺された。
「はい、もしもし吉川です」
 電話をすると、詩織ちゃんはすぐに出た。
「笹原です。……詩織ちゃん? ごめんね、さっきは出れなくて」
「ううん、お風呂入ってたの?」と、詩織ちゃんは言った。「絵里ちゃんのお母さんとすごい久しぶりに話しちゃったよ」
「ああ、……」
「あのさ、土曜日のことなんだけど、絵里ちゃん行くんだよね?」
「……?」
 絵里は、なんのことだかわからずに首をかしげた。
「あれ? 今日小野さんに、土曜日に平塚くんの家で劇の練習するから、詩織ちゃんも来ないって誘われたんだけどさ。あたし平塚くんとそんなに仲良くないし、どうしようかと思ってたんだけど……。絵里ちゃんが行くならあたしも行こうかなって……」
「ちょ、ちょっと待ってよ」と、絵里は詩織ちゃんの言葉をさえぎって、「あたしそんなの今初めて聞いた」
「え、そうなの?」
「……」
 あの子、どうしてそういう勝手なことするのかなあ……。
「そっかあ、絵里ちゃん行かないからあたしもやめとこうかな……」
 詩織ちゃんは迷っているようだった。
「……どうしよう」
 正直、昼間は小野さんにああ言ったけれど、平塚くんの家に行ってみたいという気持ちはあった。
「だいたい、平塚くんちは平気なのかな」
「一軒家らしいし、おっきな声出してもある程度は平気なんじゃない?」と、詩織ちゃんは言った。「お母さんも仕事で昼間はいないみたいだよ。……ねえ、絵里ちゃん、もし嫌じゃなかったら、一緒に行ってみない?」
「……ううん」
「なんか楽しそうじゃん。うちのクラスさあ、男子と女子あんまり仲良くないから、ほとんど遊ばないし……。男子の家に遊びに行くなんて、今まで一回もなかったもんね」
「……」
 絵里は受話器を持ったまま、しばらく考えていた。


 シバの足の裏を拭いてやっている平塚くんを見ながら、絵里は、詩織ちゃんと電話で話したことを思い出していた。結局、流されるまま自分はこうして平塚くんの家へ来てしまっている。
 ……それなのに、どうして言いだしっぺの小野さんがまだ来ないのよ……。
「笹原さん、犬好き?」
 と、不意に平塚くんが訊いた。
「あ、うん。うちは団地だから飼えないけど……かわいくていいなあ、うらやましい……」
「けっこう大変だけどね」
 平塚くんは急に声をひそめて、
「こないだこいつ、ご飯の時間になってもなかなか来なくてさ。いつもはすぐ走ってくるのに、変だなあと思ったら、なんか庭の隅でごそごそやってるの。何してるんだろうと思って見てみたら……」
「うん」
「蝉食べてた」
「……え?」
「蝉食べてた」
 ミーン、ミンミンミンミーンミーン……。
「……想像すると、ちょっと気持ち悪いかも」
「うん、ちょっとグロかった」平塚くんは笑った。「調べてみたけど、別に害はないみたいだから、ほっといてる」
 シバは自分の話をされているのがわかっているやらいないやら、縁側に座ったまま、小首をかしげて二人の方を見ている。ただでさえ、地上に出てから一週間しか生きられないのに、蝉も大変だなあ。絵里は少し同情した。
 二人はしばらく取り留めの無いことを話していたが、いっこうに小野さんが来ないので、先に軽く読みあわせをしておこうということになり、平塚くんが部屋から本を持ってきた。
「平塚くんて何の役なんだっけ」
「ぼくは、ロミオの従者」と、平塚くんは言った。「ほとんど台詞ないから、よかったよ」
 第四幕で、ロミオがヴェローナを追放され、婚約者の貴族、パリスと無理やりに結婚させられそうになったジュリエットは、神父にすすめられ、四十二時間のあいだ仮死状態になる薬を飲む。
 死んだと思われたジュリエットが埋葬された後、ひそかにロミオを呼び戻し、目覚めたジュリエットとヴェローナを抜け出す手はずだったのだが、ロミオにその旨を伝える手紙を持たされた従者が、ペストのせいで途中で足止めされ、手紙は届けられないままになってしまう。ジュリエットが死んだと誤解したロミオは、自ら毒をあおって息絶えることになる……。
「でも、この人がちゃんと手紙を届けてたら、ロミオもジュリエットも死ななくてすんだかもしれないんだよね」
 絵里は本の頁をぱらぱらとめくりながらつぶやいた。
「そうだね……、まあ、ある意味重要な役かも」と、平塚くん。「ぼくの方は別にいいよ。……笹原さん、どこ練習する? ぼくが小野さんの代わりにロミオ役やるから」
「……じゃあ、ここかな」
 二人は縁側に腰掛け、台詞を読みはじめた。パチ、パチ……と、詩織ちゃんと石浜くんが将棋盤に打ち付ける駒音が聞こえていた。
「『おっしゃるとおりにいたしましょう!
 私をただ、恋しい人だと呼んでください。すぐにでも洗礼を受けて名前を変え、
 ロミオという名前とは別な人間になりましょう。』」
「……『あなたはだれなのです、こうやって夜の暗闇にまぎれ込み、
 私の内緒の独語を聞いたあなたは?』」
「『私がだれか、どういう名前で答えていいのか、
 私にもわからないのです。あなたは私の名前を仇だとおっしゃる、
 だとすれば、それは私にとっても憎い憎い名前。
 何かに書いてあれば、消してしまいたいほど憎い名前です。』」
「『あなたのお口から響いてくる言葉を
 私はまだそれほど耳にはしておりませんが、お声はちゃんと覚えております。
 あなたはロミオ、モンタギュー家のお方。』……」
 ……
 一息つくと、冷蔵庫から麦茶のおかわりを出してきてごくごくと飲んだ。汗ばんだ首筋に冷たいグラスを当てると、ひんやりと気持ちよかった。 
「ロミオって、もともと好きな人がいたのに、ジュリエットを見たら一目惚れしちゃったんだよね」
 麦茶を飲みながら絵里は言った。
「そうそう、それ、ちゃんと読んでみるまで知らなかった」
 平塚くんも同意する。ロミオは元々ロザラインという女の人のことが好きだったのだが、ロザラインに会うために忍び込んだキャピュレット家のパーティでジュリエットを見た途端、お互いに恋に落ちてしまったのだ。
「……なんか、よくわかんない」
 と、絵里はつぶやいた。
「え、何が?」
「一度好きになった人のことを、そう簡単に忘れられるものなのかな」
「……」
「あたしは、一目惚れとか信じられないよ」と、絵里は言った。「その人のこと、会ったばかりでまだ何にも知らないのに……」
「笹原さんは、好きな人いるの?」
 その平塚くんの言葉に、絵里の胸がどくんと鳴った。
「休み時間とかもさあ、女子ってそういう話ばっかりしてるもんね。なんか、相性占いとか……」
「……ないよ」
「え?」
「好きな人なんて、いないよ」
 絵里はそう言って立ち上がった。「……小野さん遅いね。あたし、迎えに行ってくる」
 平塚くんの返事も待たず、そのまま庭に下り、草を踏みしめて早足で歩いていく。
 絵里は俯いたまま歩き続けていた。とにかく、平塚くんのそばにいたくない一心で、機械的に足を動かす。
 どれくらい歩いただろう、ふと立ち止まり、目じりにたまった涙をぬぐった。
 ――笹原さんは、好きな人いるの?
 どうして、……どうして、そんなこと言うの?
 絵里はしばらくその場に立ちつくしていたが、不意に違和感をおぼえた。さっきまでうるさいくらいに聞こえていたはずの蝉の声が、ぴたりと止んでいることに気づく。
 ……あれ?
 不思議に思って顔を上げ、絵里は思わず自分の目をうたがった。
 自分の身長も何倍もあるような木々が、視界を埋め尽くしている。平塚くんの家の庭に、こんな場所あったっけ……? 
 絵里は辺りをきょろきょろと見回した。足元には草が生い茂り、葉の間から差し込む木漏れ日が、土の上に白いまだら模様をつくっている。
 灌木の重なり合う葉の向こうには、さっきまでいたはずの母屋は影もかたちもない。大きな音がして上を見上げると、枝から飛び立つ鳥の影が見えた。
「……森?」
 思わずつぶやく。平塚くんの家の庭は、もちろん、ぐるりを囲う石塀が見えないほどに広くはなかった。
 庭じゃないとしたら……じゃあ、ここはどこなんだろう? 
 さっきまでの悲しい気持ちは、いっぺんにどこかへ吹き飛んでしまった。心なしか、さっきよりも空気がひんやりしている気がする。
 あたし、夢でも見てるのかなあ……、まるで現実味がなく、絵里はぼんやりと宙を見つめた。
 すると、森のどこからか声が聞こえてきた。
『ところで、ロミオはどこにいます? 今日、見ませんでしたか?
 この騒動にあれが加わっていなかったのが、何よりの幸いでした。』
『実は、伯母上、あの神々しい太陽が
 黄金色に輝く東の窓からその顔をのぞかせる一時間ほど前のこと、
 私は心の痛みに堪えかねて、つい家から外へ出かけました。
 外を出歩いているうちに、市の西の外れにある、
 鬱蒼と茂る楓の森に辿りつきました。』
 絵里は、その声に聞き覚えがあった。すぐそばの苔むしているごつごつした木の幹に触れてみる。
 ……この葉っぱ、そういえば見覚えがある気がする。
 楓の森……。
 絵里は、ロミオとジュリエットの一場面を思い出した。ロザラインへの恋に苦しむロミオは、悩むあまりに、毎朝町外れの森をうろうろと歩き回っていて、そこを友達のベンヴォーリオに目撃されるのだ。
 絵里は頭を振ると、声のするほうへ恐る恐る進み始めた。
『ふと見ると、なんともうはやばやとロミオが歩き回っておりました。
 私が近づいて行きますと、先方もすぐにそれに気がつき、
 森の茂みの中へすうっと姿を消してしまいました。
 人生に倦み疲れたときには自分一人でも多すぎて、 
 できるだけ人に見られない孤独な場所を求めたくなるもの、』
 あたしもそうなのかもしれない、と絵里は思った。平塚くんと一緒にいたくなくて、一人きりになりたくて……。
 低いところに伸びる枝をくぐる時、服を引っ掛けて破いてしまった。お母さんに怒られるかもしれないと思うが、もう気にしていられない。
 絵里にはもう、声の主が誰かはうすうすわかっていた。
『私自身の気持ちがまさにそうでしたので、ロミオの気持もそうであろうと思い、
 私はただ自分の思いに導かれるままに、彼の思いを確かめるのもやめ、
 こちらから喜んで身を隠しましたが、ロミオもそれを喜んだ様子でした。』
 それを聞いて絵里は思う。
 でも、もし自分の話を聞いてくれる人がいるとしたら……、
 その誰かのそばにいたいと思うのも、自然なことなんじゃないだろうか?
 木の根に躓きそうになりながらも、しばらく歩いていくと、茂みをかきわけたところで、急に開けた場所へ出た。
 淡い紫色の花が一面に咲き乱れている。その真ん中で、歌うように台詞を口にしている女の子の姿があった。
 絵里が近づいて行くと、今まで述べ立てていた台詞を急にやめ、
「『恋をしているな?』」
 と、小野さんは絵里に向かって言った。
「それが、つれない……」
 絵里がそう続けると、
「『つれない恋ってわけか?』」
「……」
「『ああ、見た目にはいかにも楽しそうだが、
 いざその身になれば泣きの涙、ってのが恋というものかね。』」
「……小野さん、どうしてこんなところにいるのよ」
「えへへ」
 小野さんは、照れくさそうに笑った。
「それにしても、これ……」絵里は周りの景色を見渡してから、「この森……、小野さんがやったの?」
「ようこそ、ヴェローナの森へ」
 と、小野さんは言って一礼した。「あたしのせいとも言えるし、そうじゃないとも言えるかな」
「……何言ってるのか、よくわかんないよ」
「ごめんね」
 突然そう言って、小野さんは目を伏せた。
「え?」
 急に謝られても、どうしていいかわからない。
「……どうして謝るの?」
「うまくいくと思ったんだけど……、あたしが平塚くんの家に行こうなんて言ったせいで、嫌な思いさせちゃってさ」
 平塚くんとのさっきのやりとり、小野さんは聞いてたのかな。
「……別に、小野さんのせいじゃないよ。あんなこと言う、平塚くんが悪いんだもん」
 絵里は言って、「ああ、もう思い出したらむかむかしてきた……」
「……なんか、意外」
 小野さんは目をしぱしぱさせた。
「絵里ちゃんが怒ったところ、初めて見たかも」
「そりゃ怒る時には怒るよ。……でも、あんまりないし、貴重だから、よく見ておいたほうがいいよ」
 そう答えると、小野さんはきょとんとした顔をして、やがてくすくす笑いはじめた。
 二人は花畑の真ん中に寝転んで、空を眺めた。手で千切ったような形の雲が、ゆっくりと流れていく。
「……ロミオも、好きな人のことを考えながら、ここを歩き回ってたのかな」
「そうかもね」 
 小野さんは起き上がって、
「でも、人の気持ちなんて、よくわかんないよ。同じ時代に生きてる人のことだってわからないのに……、何百年も前に生きていた人のことなんて、お話の中の人のことなんて、なおさら」
「……」
 絵里の頭には、平塚くんの顔が浮かんでいた。
「絵里ちゃんは、国語の時間に朗読する時……、登場人物の、その人の気持ちになろうって考えたりする?」
「……ううん」
 しばらく考えてから、絵里は首を振った。 
「小さい頃お婆ちゃんの家に行くと、いつも本を買ってもらえた。買ってきた本を、お婆ちゃんが読んでくれたの。あたしはそれがすごく楽しみだった。でも今は、病気で入院してて……、いつどうなるかわからないんだって。正直言って、全然実感がないんだけどね。
 たぶん、その時のこと考えてた。
 お婆ちゃんみたいに読みたいって、もしお婆ちゃんだったら、どんな風に読むだろうって、そう思ってたのかもしれない」
「それでいいんじゃない?」
 小野さんは立ち上がると、肩をぐるぐる回し、
「あたし、なんか絵里ちゃんのお婆ちゃんと仲良くなれそうな気がするよ」
 と、言った。


 二人が母屋に戻った時には、もう陽が落ちかけていた。庭では、縁側のそばで三人が何やら話していた。絵里と小野さんが近づいて声をかけると、
「もう、どこ行ってたんだよっ、心配したんだから」と、詩織ちゃんは口をとがらせた。
「ごめんね、なかなか小野さんが見つからなくて……」絵里は言って、足元にすり寄ってきたシバの頭を軽く撫でた。
「転校生、今まで何やってたんだよ」
「ちょっと野暮用でね」
 石浜くんの言葉に、小野さんは肩をすくめた。「それに……、どんな話だって、主役は遅れて登場するものでしょ?」
「誰が主役だよ」
「目の前にいるじゃない」
 ほらほら、と小野さんは自分の顔を指でさしながらそう言ったが、
「ぜんぜん見当たらないけどなあ」
 石浜くんはわざとらしくきょろきょろしてみせる。小野さんは不満そうに頬をふくらませ、サンダル履きの石浜くんの足を思い切り踏んだ。
「……っ!」
 石浜くんはその痛さに足を抑え、涙目になり、ぴょんぴょんと片足で庭を跳び回る。
 小野さん、容赦ないなあ……。絵里と詩織ちゃんは、呆れ半分にそれを眺めていた。
「でも、冗談じゃなくてさ、もう少し見つからなかったらお母さんに言うところだったよ」と、平塚くんは言った。「……笹原さんがいなくなってから、もう三時間以上経ってるんだから」
 え、そんなに時間経ってたの? 小野さんと話していたのは、ほんの二三十分くらいだった気がするけれど……。
 時おり吹く、肌に感じる風も、いつの間にかひんやりとしている。絵里は小野さんの方を見たが、小野さんは何も言わず、口元に人差し指をあて、悪戯っぽく笑った。
「みんな、いつまで庭にいるの」
 いつの間にか帰ってきていたらしく、縁側から、平塚くんのお母さんが顔を出した。おっとりとした声音で、「……あら? 二人増えてるのねえ」
「あ、お邪魔してます」
 小野さんが笑顔を返し、
「……お邪魔してます」
 絵里も軽く頭を下げる。
「もしよかったら、みんなうちで夕飯食べていきなさいな」平塚くんのお母さんは笑って、「みんな、カレー、嫌いじゃない? ……この子ねえ、あんまり友達連れてきたりしないから、いつも二人だけだし……。こんなににぎやかなの、久しぶりなのよ」
「お母さん、余計なこと言わなくていいから……」と、平塚くんは慌てたように制した。
「なんだったら、みんな泊まってく? この家、部屋だけはいっぱいあるから」
「……だから、お母さんってば」
 恥ずかしいのか、平塚くんは縁側に上がり、なおも続けようとするお母さんを無理やり台所へと引っ張っていった。他の三人は顔を見合わせてから、笑いながら母屋へ上がった。 
 平塚くんの家のカレーは、家でつくるカレーに比べたら少し辛かったけれど、平塚くんのお母さんがすすめるので、絵里もおかわりをしてしまった。小野さんは二杯も三杯もたいらげていて、みんな目を丸くしていた。
 食べ終わった後、平塚くんは仏壇に竹篭から出してきた蜜柑を供えた。お線香の香りが、しばらく和室に漂っていた。
 それから絵里たち女子三人は、着替えを取りに一度家へ戻ることになった。この辺りは一軒家が多く、ぽつぽつと街灯の光が路地を照らしている。
「まさか、ホントに泊まることになるなんてねえ……。しかもみんなで銭湯行くとか。あたし、銭湯行くの初めてだよ」
 と、詩織ちゃんが言った。
 さっきの夕飯のあいだに、平塚くんのお母さんが、みんなが泊まることを独り決めしたらしく、二階の部屋に布団を敷いてしまい、断るに断れない状況になってしまった。
 人数が多いので順番にお風呂に入るのも時間がかかるため、学校の近くにある銭湯、「春の湯」に行こうということになったのだが、なぜか平塚くんはあまり行きたくなさそうにしていた。
「ねえ、さっき電話したとき、絵里ちゃんのお母さん何か言ってた?」
「ううん、別に……」
「男子の家に泊まるってこと言った?」
 ううん、と絵里は首を振り、
「ただ、同じクラスの友達の家に泊まるってだけ。迷惑かけないようにしなさいよって言われた」
「そっかあ……」
 詩織ちゃんは何かを考えているようだったが、
「あたしたち、フライデーされちゃうかもね」
 と、急に言ったので、絵里は思わず吹き出してしまった。
「絵里ちゃん、笑い事じゃないよ」
「だって、あたしたち芸能人でもなんでもないじゃん」
「わかんないよ」 
 辺りをうかがうように、きょろきょろと見回し、
「記者がそのへんにうろうろしてるかもしれない。そしたら、明後日の朝、教室の黒板に相合傘描かれちゃうかもよ」
「それは……、嫌かも」
 詩織ちゃんは腕組みをして、しばらく悩んでいたが、
「でも、なんか林間学校みたいだし、どきどきする……。一学期に、日光行ったじゃない」
「うん」
「バスの中で、先生がカラオケで演歌歌い始めちゃって大変だったよね……。あの時はさあ、絵里ちゃんと同じ班になれなかったもん」と、詩織ちゃんは言った。「一緒ならよかったのになあって、ずっと思ってたの」
「……うん。あたしも、詩織ちゃんと一緒だったらよかったのにって思ってた」絵里は言った。
 その時、少し前を歩いていた小野さんが振り返り、
「林間学校、日光だったんだ」
 と、ぽつりとつぶやいた。
「そうなの、小野さんも四月に転校してきてれば一緒に行けたのに」
「あたし、ずっと入院してたからさ。林間学校とか、今まで行ったことないんだよね」
「……」
 絵里は、転校当初に女子の間で流れていた噂を思い出した。
 出所はわからない、先生から誰かが聞き出したのだろうか、本当か嘘かもわからない話……。
「そういえば誰か、そんなこと言ってたね」
 と、詩織ちゃんが言った。
「うん。別に、隠してるわけでもなかったんだけど」
 三人は、黙ったまま歩いていた。細い道を、前から車が来たので歩道の方へよける。
 街灯の明りの下まで来ると、小野さんは立ち止まった。
「友達の家に泊まるとかも、一度もなくて……」
 珍しくはにかむような表情で、
「だからね、……あたし、こうやってみんなと一緒にいられるのがすごく楽しいんだ」
 絵里は家に帰ると、急いで荷物をナップサックに詰め込んだ。玄関で靴を履いていると、お母さんが小走りに近寄ってきて、
「ほら、銭湯行くんでしょう、お金あげるから」
「あ……、ありがとう」
 立ち上がり、五百円玉を受け取る。
「お釣りでジュースでも買っていいから」と、お母さんは言った。「もう暗いから、気をつけていくのよ。銭湯なんて久しぶりでしょ」
「うん」
 絵里は頷いて、「ねえ、お母さん」
「何?」
「最近、お婆ちゃんのお見舞い行った?」
「うん、先週の水曜日に行ったけど……、なんか、前よりも元気になってたわ」
「そうなんだ」
「そうそう、……このところ、夢を見るんだって。どんな内容かは覚えてないらしいんだけど、楽しい夢らしくてね。にこにこしながら話してたわ。最近暑さもだいぶ引いてきたからかな、わりと調子いいみたいだった」
 絵里は、その話を聞いて意外な気がした。
「……夢なんて見るんだね」
「え?」
 お母さんはきょとんとした顔になる。
「大人も、夢を見たりするんだね」
「……ああ、そっか」
 そう言って、お母さんは笑った。
「まだ絵里は知らないかもしれないけど……、大人も子供も、同じように夢を見るのよ」

 
 春の湯の番台には、意外なことに、よく知った顔が座っていた。
「あれ、委員長?」
 絵里が思わずつぶやくと、
「……どうしたの? みんなそろって」と、委員長は驚いたように目をぱちぱちさせた。それから平塚くんの方を見て、「正人くんも、久しぶりだね」
「……うん」
 平塚くんは渋々、という風に頷いた。
「え、なになに」透明のプールバッグを提げた詩織ちゃんは、二人の顔を交互に見やった。「委員長、平塚くんのこと、正人なんて呼んでたっけ」
「なんか、仲よさそう」
 そう言う小野さんは、シャンプーとボディーソープ、手拭いを入れた自前の黄色い桶を小脇に抱えている。待合室のテレビでは、音楽番組が流されている。湯上りらしいお爺さんが、長椅子に座ってコーヒー牛乳を飲んでいた。
「あれ、お前ら知らないの?」 
 石浜くんはなぜか自慢げな口調だ。「岡と正人は幼馴染なんだよ。幼稚園からの知り合い」
「そうなんだ……」
 そんなこと、今初めて知った。平塚くん、だからあまり行きたくなさそうだったのかな。
「番台、いつもはお婆ちゃんが座ってるの、ボケ防止になるからって。でもこの間腰を悪くしちゃったから……」と、委員長は言った。「さっきまでお母さんがいたんだけど、ちょっと用事で出かけちゃったから、あたしが留守番してるんだ」
 絵里が平塚くんの家に泊まることになった経緯を説明すると、ふうん、と委員長は興味なさそうにつぶやいた。
「委員長もいっしょに入ろうよ」
 詩織ちゃんはそう言ったが、委員長は首を振った。
「せっかくだけど、あたしは無理。いつもお客さんそんなには来ないけど、一応ここにいなくちゃ」
 脱衣所の入口で男子二人と別れ、絵里たちは服を脱いだ。カラカラと引き戸開けて浴場へ入る。絵里たち三人の他にお客さんは誰もいなかった。
「うわー……、貸切みたい」
 と、詩織ちゃんははしゃいだ声を出した。天井は高く、上の方は仕切りがなく男湯とつながっている。壁の向こうから、何人かの大人の男の人の声が聞こえてきた。
絵里と詩織ちゃんがそのまま湯船に浸かろうとすると、
「だめだよ、先に体洗わないと」
 と、小野さんに注意される。
「え、そうなの?」
「他の人も入るんだから、エチケットだよ、エチケット。自分の家だったら別にいいけどさ」
「あたしたち、銭湯初心者だから……」
 三人は並んで、体と髪を洗った。髪の短い小野さんは、すぐに洗い流してしまい、先に湯船に入った。浸かる時に「ああ……」と声を漏らしていて、やっぱりおばさんくさいな、と思う。
 お湯が家のお風呂よりも熱くて、長いこと肩まで浸かっていられなかった。すぐに顔が火照ってくる。
 絵里が一度お湯から上がり、ぼんやりと浴槽の縁に腰かけていると、
「……そういえば、絵里ちゃんてさあ」すぐ隣に座っている詩織ちゃんが、耳元でささやいた。「好きな人いるの?」
「え、……」
「この前、一目惚れの話してたじゃない」
 ああ、そういえば……、そんなこと、すっかり忘れていた。
「だから、いるのかなって」詩織ちゃんは、暑いのか手で顔のあたりをぱたぱたと扇いでいる。
「……」
 絵里は、洗い場でストレッチをしている小野さんの方をちらと見てから、
「……うん、いるよ」
 と、答えた。
「え、だれだれ? クラスの男子? あたしの知ってる人?」
「いや、ちょっと無理……」
「なんでよー、いいじゃん。教えて教えて」
「……」
 絵里は黙っていた。
「じゃあ、勝負しようよ」
 詩織ちゃんは急に言った。
「勝負?」
「どっちが長い間湯船に浸かってられるか対決」
「……どっちが長い間湯船に浸かってられるか対決?」と、絵里は言った。「もしかして、……どっちが長い間湯船に浸かってられるかで対決するの?」
「すごい、よくわかったね」
 と、詩織ちゃんは言った。「じゃあ、負けたほうが罰として好きな人の名前を言うこと。わかった?」
「ええ、何それ……」
「ほら、勝てばいいんだから、勝てば」
「もう……」
 絵里はしぶしぶ頷いた。小野さんに審判をやってもらうことにして、二人はあらためて湯船に浸かった。
「あんまり無理しないようにね。……よーい、スタート」
 小野さんは、コン、と桶を浴槽の縁に当てて合図してから、大きな声で数を数えはじめた。
 いーち、にーい、さーん、しーい、……絵里は熱いお湯に肩まで浸かりながら、小野さんが数を数える声を聞いていた。
 じゅーいち、じゅーに、じゅーさん、じゅーし……
 じゅーご、じゅーろく、じゅーしち、じゅーはち……
 じゅーく、にじゅう、にじゅういち、にじゅうに、にじゅうさん、にじゅうし、にじゅうご、にじゅうろく……、
 絵里は口元までお湯につかり、ぶくぶくと泡を立てた。
 ……これに負けたら、本当に好きな人のことを言わなくちゃいけないんだろうか。……ちょっと、嫌だなあ。
 ていうか、詩織ちゃんも好きな人、いるのかな?
 ……だいたい、……あたし、……どうして平塚くんのこと好きになったんだっけ……。
 ごじゅーいち、ごじゅーに、ごじゅさん、ごじゅし、ごじゅご、ごじゅろく、ごじゅしち、ごじゅはち、ごじゅく、ろくじゅう、ろくじゅういち、ろくじゅうに、ろくじゅうさん、ろくじゅうし……
 絵里は、だんだん頭がぼうっとしてきた。小野さんの声が、さっきよりも遠くに聞こえている。
 ななじゅうなな、ななじゅうはち、ななじゅうく、はちじゅう、
 はちじゅういち、はちじゅうに、はちじゅうさん、
 はちじゅうし、はちじゅうご、はちじゅうろく、
 はちじゅうしち、はちじゅうはち、はちじゅうく、きゅうじゅう、きゅうじゅういち、きゅうじゅうに……


 気がついた時、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
「ん……」
 絵里が起き上がろうとすると、体にかけられていたバスタオルがはらりと落ちた。
「あ、起きた」
 小野さんの声が聞こえた。目を開けると、すぐ目の前には浴場へつづく磨りガラスの引き戸が見え、絵里は自分が脱衣所の椅子に寝かされていたことを知った。両隣には小野さんと詩織ちゃんんがいて、心配そうに絵里の顔をのぞきこんでいる。
 絵里はゆっくりと首を振り、
「……あたし、倒れちゃったの?」
 と、言った。
「そう。のぼせちゃったんだね、たぶん」と、小野さんが言った。「急に立たないほうがいいよ」
「ごめんね、あたしのせいで……」責任を感じているのか、詩織ちゃんはシュンとしている。
「ううん、……もう大丈夫だから」
 ふう……、と溜息をつき、絵里は立ち上がった。椅子に座りなおしてから、
「二人とも、迷惑かけてごめんね」
「そんなことないよ」小野さんは言ってから、「でも、服着たほうがいいかもね。風邪引いちゃうから……」
 そこでようやく、絵里は自分が裸のままだったことに気づいた。あわてて床に落ちていたバスタオルを体に巻きつける。うう、恥ずかしい……。
 絵里が服を着替えてドライヤーで髪を乾かしていると、詩織ちゃんは飲み物を買ってくると言って、脱衣所から出て行った。絵里がまだ熱い頬を手でおさえながらぼんやりしていると、横にいる小野さんが、脱衣所の備え付けの団扇でぱたぱたと扇いでくれる。
「ありがとう」
「扇風機、壊れてるみたいだし」
 言われて上を見上げると、壁に設置されている扇風機には、たしかに「故障中」と書かれた紙が貼られていた。
「……そういえば、男子二人は?」
「外で待ってるって」と、小野さんは言った。「平塚くん、心配してたよ」 
「……」
 脱衣所にまで、待合室で流れているテレビの音が聞こえている。しばらくのあいだ二人は無言だった。団扇で扇ぐ音だけが聞こえていた。
「……ふう」
「少し落ちついた?」
 脱衣所に女の人が入ってきた。こんばんは、と声をかけられて二人は挨拶を返す。女の人が浴場へ入り、引き戸を閉めてから、
「……平塚くんと初めて会った時ね」
 と、絵里は話し出した。
「……」
 小野さんは団扇を扇ぐ手を止め、絵里の方を見た。
「三年生の時、夏休みに何人か集まって区営プールに行ったの。誰かが誘ったのか知らないけど、他のクラスの子も何人かいて……、その中に平塚くんもいたんだよね。
 あたしその時サンダルはいてて、歩道の植え込みを飛び越えようとしたら、転んで爪剥がしちゃったんだ」
「うわ、痛そう……」
 小野さんは顔をしかめた。
「痛かったよ。でも、そのことより……あたしだけ家に帰らなくちゃいけなくなって、なんか仲間はずれにされたみたいで、その方が嫌だった。他の女の子たちも、口では心配そうだったけど、一緒に来てくれなかったし……。
 でも、平塚くんがついてきてくれたんだよね。危ないから一緒に行くよって。ほかの男子に冷やかされたりしたけど、そんなの全然気にしてないみたいだった、……。もうあんまり覚えてないけどさ。だからね、一緒のクラスになれて、すごく嬉しかった」
「……」
「なんか、今急に思い出した」
「……そっか」
 小野さんは立ち上がり、
「平塚くん、いい子だね」
「いい子って……、同い年でしょう」
 絵里が指摘すると、
「人は見かけにはよらないんだよ」
 と、笑った。
 やがて詩織ちゃんが飲み物を買って戻ってきた。それを飲んでから待合室へ戻る。受付には知らないお婆さんが座っていて、委員長の姿は見えなかった。もう帰ってしまったのだろうか。
 外へ出ると、隣のコインランドリーの前のガードレールに、男子二人が座っていた。
「……大丈夫?」
 濡れ髪の平塚くんに声をかけられ、
「うん。ごめんね、遅くなっちゃって」
 絵里が笑顔でそう返すと、なんだか、平塚くんは少し驚いたような顔をしていた。
 平塚くんの家に戻ってから、布団の上に寝転がり、みんなでトランプをして遊んでいると、すぐに時間が過ぎてしまう。笑い声が下にまでひびき、平塚くんのお母さんに、やんわりと注意されてしまった。
 十時過ぎには部屋の明りが消された。
 蒸し暑いこともあり、絵里はなんとなく眠れずに、暗い部屋の中ぼんやりと天井を見ていた。
「絵里ちゃん、……起きてる?」
 不意に、隣の小野さんが話しかけてきた。
「うん」
「眠くないの?」
「小野さんだって……」
「なんか、寝るのもったいなくてさ。絵里ちゃんだって、ずっと起きてたでしょ」
「あたし、人の家だとなかなか寝れなくて」
 もう寝ている詩織ちゃんを起こさないように、小声でささやくようにつづける。
「ね、そういえばさ。詩織ちゃんの好きな人って誰だったんだろうね」
「うーん、……」
 全然見当もつかない。今までそういう話、したことなかったからなあ。
「意外と石浜くんとか?」
「ええ、そしたらどうしよう……」
 なんだか自分が照れてしまい、頬に手を当てる。
「絵里ちゃん関係ないじゃん」
「関係あるよ。そっかー、石浜くんかあ……。でも、お似合いかも。顔はちょっと怖いけど」
 独り決めして顔を赤くしている絵里に、小野さんは呆れたような目を向けた。
 二人はしばらく小声で話していた。少し開いたままの窓から風が入ってきて、カーテンを揺らした。
「なんかあたし、ぜいたくだったのかも」
 と、絵里は言った。
「……?」
「自分が誰かを好きになって、その相手に好かれないことがずっと悲しかったけど、……でも、好きになってもらえなくても、一緒にいるだけで楽しかったんだ。好きになった頃は、ずっとそうだったのに……、
 いつの間にか、忘れてた、そのこと」
「……ふうん」
「……あ」
 絵里はふと思い出した。
「どうしたの?」
「なんか、劇の練習するために集まったはずなのに……、ほとんど練習してないなと思って」
「でも、楽しかったよ。あたし、すごい楽しかった」
 その言葉に絵里は頷いて、
「あたしも楽しかった」
「じゃあいいじゃん」
「……、じゃあ、まあいっか」
 小野さんは嬉しそうに笑って、
「『何という素晴らしい夜だ、何という嬉しい夜だ!
 今ちょうど夜なので、夢でも見ているのではないのか。
 余りに嬉しくてとても本当とも思えぬくらいだ。』」
「それ、……」
「ロミオが、ジュリエットに会った時の台詞」
「……」
「大げさだよね……」と、小野さんは言った。「でも、あたしも今、そういう気持ちかもしれない」
 ロミオとジュリエットが生きていた時代にも、今のあたしたちみたいに、……いつだって、こんなふうに夜はやってきた。
 何という素晴らしい夜だ……。
 絵里は、心の中で何度もその台詞を繰り返した。