ロミオとジュリエット 4話

 第四話


 町は夕焼けに包まれていた。
 家路を急ぐ人たちが、あちこちで声を交し合い、足を速める。学校帰りの中学生が笑い声を上げながら、大通りを走っていく。商店街では、店の人たちが声を張り上げている。
 どこかでかくれんぼをしている子供たちの声が聞こえている。
 電線にとまった烏が鳴いている。横断歩道の信号が点滅し、時おり吹く風に街路樹の葉が揺れる。高架を電車が通り過ぎ、それに驚いた散歩中の犬が大声で吠え始める。
 いつからこんな風だっただろう。
 もうずっと、何年も前からこんな景色を見ていた気がする。
 何年も前から、……
 そして、これからも、ずっと……。


   ※


 五年二組の教室では、演劇祭本番前の最後の練習が終わり、みんな教室に集まっていた。夕焼けに赤く染まる教室の中、机を後ろに寄せ、真ん中にいる先生を囲むようにして、円を描いて床に座っている。
「……もう本番は明日なんだから、ここまで来たら楽しんでやろうね。自分たちが楽しむのが第一だから」
 と、先生は言った。
「先生、その台詞、なんか青春ドラマみたい」男子の一人が茶化し、数人がくすくす笑った。
「だってそうじゃない。自分たちが楽しくなかったら、誰も楽しんでくれないわよ」
「……自分たちが楽しむのって、……むずかしいね」
 詩織ちゃんがつぶやき、横で委員長と絵里も思わず頷いた。すると先生は、
「大丈夫、皆がんばってきたんだから。練習通りにやればいいのよ」
 そう言うとにっこり笑って、自分のお腹をさすった。
「ほら、……この子も応援してるってさ」
「わかるの?」
「うん。喋れなくても……、なんとなくわかるんだよね」
 と、先生は言った。
 クラスみんなで円陣を組み、
「本番、がんばるぞ!」
 大きな声で気合を入れた後、解散になった。
 みんながいなくなった後、絵里は自分も帰ろうと教室を出ようとして、ふと立ち止まった。机一つ分のスペースが空いている。
 ……ここには、小野さんの机があった。
 小野さんがここへ座って毎日授業を受けていた。いつまでも上履きを買わずにずっとスリッパのまま、授業なんかぜんぜん真面目に聞いていないのに、そのくせ成績はいつもよくて……。今でもはっきりと、授業中、退屈そうにしているその横顔を思い出すことができる。
 あの屋上で話した日……小野さんがいなくなってから、もう一週間が経っていた。
 詩織ちゃんは小野さんのことを覚えていなかった。
 まるで最初から知らなかったみたいに……。どんなに説明しても、平塚くんの家に泊まった話をしても、首を傾げるだけで、しまいには、
「……絵里ちゃん、大丈夫? 夢でも見てたんじゃないの?」
 と、こちらの正気を疑われる始末だった。
 委員長や平塚くん、石浜くん、他のクラスの人に聞いても同じだった。まるで最初からそんな人なんていなかったみたいに、誰も小野さんのことを知らなかった。先生の出席簿をこっそり確認してみたが、当然そこにも小野さんの名前はなかった。
 絵里は、ひどく怖くなった。
 最初は小野さんのことをみんなに思い出してもらおうと必死になっていたけれど、そのうちに話すのをやめてしまった。
 あまりにもみんなの態度が自然なので、……もしかしたら、こっちがおかしいんじゃないかと思い始めていた。
 ……あの子は、本当にいたんだろうか?
 そんな考えも、時々頭をよぎるようになった。小野さんが確かにいたことを、確かめる方法は何もなかった。
 不意に教室の戸が開き、詩織ちゃんと委員長が顔を出した。
「絵里ちゃん、何してんの? 早く帰ろうよ」
「あ、うん……」
 絵里は言われて、二人といっしょに教室を出た。
 その晩絵里が晩ご飯を食べ終え、居間でテレビを見ていると、
「……あ、忘れてたわ」
 と、台所からお母さんの声が聞こえた。絵里は飲んでいた麦茶を飲み干すと、空のコップを持ったまま台所へ行く。
「どうしたの、お母さん?」
「もうすぐお父さん帰ってくるんだけど、ビール買ってきておくの忘れちゃって……、今、お父さんの分のカツ揚げてるから、……」
「じゃああたし買ってくるよ」
 そう言って、絵里は流しでグラスを洗うと、食器棚に戻す。
「ほんと? ……じゃあ、お願いしていい?」と、お母さんは言って、お財布から千円札を出した。「なんか、ひとつくらいお菓子買ってもいいわよ」
「やった」
「気をつけてね。下のコンビニでいいから……、あんまり遅くならないようにね」
「了解」
 絵里は団地の下にあるコンビニでビールを二本と、そのお釣りでポテトチップスも買った。
 そのまま戻ろうと思ったが、気が変わり、団地の裏へ回ってみる。絵里の家族が住んでいる九丁目団地の裏手には川が流れていて、駐輪場を通り抜けると、すぐに芝生の土手になっている。絵里は、金網に取り付けられた手作りの木の引き戸を開け、土手へと出た。川沿いはサイクリングロードになっていて、ぽつぽつと街灯の明りが灯っている。
 上流の方へ視線をやると、川の上を通っている電車の高架が見える。音を立てて電車が通り過ぎ、川面を漂っていた水鳥がばたばたと飛び去った。
 絵里は、暗い川沿いの細い道をゆっくりと歩きながら、あの時のことを思い出していた。
 小野さんと、初めて会った日のこと。
 あたしが平塚くんに偶然会って、神社で泣いてしまい、小野さんがここまで送ってきてくれた。
 何も言わずに、手をつないで土手の道を二人で歩いた。
「……どこ行っちゃったの?」
 と、絵里はつぶやいた。
 ロミオはティバルトを殺し、ヴェローナの町を追放されるが、牧師の計らいによってまた戻ってくる。
 小野さんは、また、戻ってくるの?
 小野さんがいなくなって……、劇のロミオ役は、平塚くんがやることになっていた。まるで最初からそう決まっていたみたいに。
 もともと自分は、最初からそれをのぞんでいたはずだった。
 平塚くんがロミオ、自分がジュリエットを演じるということ……、
 でも、こんなの、……
 絵里は芝生の上にしゃがみ、空にかかる月を見上げた。
「こんなの、……意味ないよ」
 いくら平塚くんがロミオだったとしても、小野さんがいなかったら、そんなの意味ないよ……。


   ※


 浴衣を着た絵里は、手を引かれ暗い夜道を走っていた。
 サンダルがぱたぱたと音を立てる。前を走る浴衣姿の女の子は、こちらを振り向きもせず、さっきから絵里の手を取って走り続けている。絵里は、それについていくので一生懸命で、周りの景色を見る余裕もない。
「どうしてそんなに急ぐの?」
 と、絵里は聞いた。全力で走っているのに、自分の息がこれっぽっちもあがっていない。なぜかそれを不思議だとは思わなかった。
「だって、舞踏会もう始まっちゃってるんだよ」
 と、女の子は振り向かずに答えた。
 絵里は、その声に聞き覚えがあった。
 しばらく聞いていない、懐かしい声……。
 そのまま、いったいどれくらい走っただろう。真っ暗な中に二人の足音だけがひびいている。
 やがて、絵里の耳にお囃子が聞こえてきた。陽気な笛の音が、だんだんと大きくなってくる。ドン、ドン……、とお腹にひびくような太鼓の音も聞こえ始めた。
 すると、視界の先に、神社が見えてきた。暗闇の中に、境内に吊るされた提灯の明りが、葉むら越しにちらちら揺れている。よく知っている場所、……小野さんとあの日、寄り道した場所……。
 二人は鳥居をくぐり、境内に入ったところでようやく足を止めた。やっぱり、全然息が切れていない。
「行こっ」
「うん」
 二人は手をつないだまま、石畳を歩き出す。絵里は、ようやく自分も浴衣を着ていることに気がついた。女の子の、浴衣の柄の蝶が、まるで薄闇の中を舞っているように見えた。
 絵馬の吊られている社務所の前を曲ると、カラフルな夜店の屋台が二人を出迎えた。
 広場を囲むように、ぐるりと屋台が並んでいる。ソースせんべいや、かき氷、りんご飴に型抜き……なぜか、お店の人は一人もおらず、すべて無人だった。広場の真ん中には櫓が組まれていて、その上で男の人が太鼓を叩いている。スピーカーからは、聞き覚えのある盆踊りの曲が流れ、その周りで二人と同じように浴衣姿の子供たちが音楽に合わせて踊っていた。
 みんな、お面をかぶっていて顔はわからない。
「ほら、絵里ちゃんも」
「あ、うん……」
 絵里が女の子に手渡されたのは、狐をかたどったお面だった。夜店でよく売られているような、プラスチックのものだ。いつの間にか女の子もお面をかぶっていた。日曜日の朝やっている、女の子向けの魔女っ子アニメのお面。
「でも、どうしてお面をかぶるの?」
「だって、仮面舞踏会だからね。そういう決まりなんだよ。それに、意外と楽しいよ」
 魔女のお面ごしに、女の子はそう言って、よくわからない決めポーズをしてみせる。
 これ、仮面じゃなくてお面だし……、それに、舞踏会じゃなくてこれじゃあ盆踊りじゃないのかなあ。
 そう思いつつも、ゴムを耳にかけ、いちおう狐面をかぶる。
「似合ってるよ」
「べつにうれしくない……」
 盆踊りをしている子たちの中には、よく見ると、知っている子もちらほらいるような気がする。でも、お面のせいで顔がわからないので確かとは言えない。
 境内と提灯の明り……、
 まるで夢みたいな光景だと絵里は思った。

『夢というものは、たわいもない頭脳の子供で、
 ただもう全くむなしい空想から生まれてくるものだ。
 中身は茫々漠々、まるで空気同様、
 そしてあの風よりも、そうだ、凍りついた北国の地面を今口説いたかと思うと、
 相手の冷たい仕打ちにむっとしてたちまちそこを離れ、
 雨露にしとど濡れた南の国を口説きにゆく
 あの風よりももっと浮気なやつなのだ。』

 踊りの輪に入らずに絵里がぼんやりと眺めていると、いつの間にか女の子の姿が見えなくなっていた。
 あの子、どこ行ったんだろう……。
 あの子は、あたしがずっと探していた子のような気がする。
 探しに行こうと絵里はその場をはなれ、本殿の裏の方へ回る。すると、誰かの話し声が聞こえてきた。
「……、ぶりだね」
「そうかなあ」
 絵里は思わず植え込みの影に隠れた。そっと覗いてみると、浴衣姿の男の子と女の子が、手水場のところで話している。
「そうだよ。正人くんとこうやってお祭に来るのなんて、……何年ぶりだろ」
「まあ、いつもケンジとかと一緒だしなあ」
 二人は戦隊ヒーローもののお面をつけていた。そのせいで、少しだけ声がくぐもって聞こえる。
「……あたしは、ずっと前からこうしたかったんだけど」
「え?」
「……」
「……」
「……ねえ、ほらあたしの舌、青くなってるでしょ」
「……よく見えないよ、暗いし」
「さっきかき氷食べたから……」と、女の子は言った。「きっと、正人くんのもそうなってるよ」
「亜佐美さあ、……なんか、変じゃない?」
「別に、変じゃないよ」
「なんか、無理してるっていうか……」
 絵里は、息を殺して二人のやりとりを聞いていた。盆踊りの音楽が聞こえていた。
「無理なんて……、無理なんかしてないよ」
「そう?」
「……なんで、いつもそういうこと言うの?」
「なんだよ、そういうことって」
「……」
「……、もうそろそろ、帰ろうか」
「……嫌だ」
「なんで」
 女の子の履いているサンダルが、砂を踏んでじゃり、と音を立てた。
「だって、……あたし、平塚くんのこと好きなんだもん……」
「……」
 女の子は男の子のことをまっすぐ見つめていた。絵里には、戦隊ヒーローの赤い人と青い人が見詰め合っているように見えた。
「……ごめん」
 女の子はしばらく黙っていたが、
「……どうして?」
「そんなこと、今まで考えたこともなかったから、急に言われても……」
「……」
「……」
「……他に好きな人いるの?」
「いないよ」
「嘘」
「……」
「……あたしじゃだめなんだ」
「……」
「……もういい」
 女の子はふいと顔を背けると、鳥居の方へ走って行ってしまった。男の子は去っていくその後ろ姿を見ていたが、
「なんなんだよ、もう……」と、苛苛したようにつぶやくと、踊りの輪の方へ戻っていった。
 しばらくして、絵里は立ち上がった。
 あれ、……平塚くんと、委員長?
 絵里は今年の夏休み、ほとんど一人で過ごしていたので、神社の夏祭りにも行かなかった。
 今のは、本当にあったことなのだろうか。
「どうだろうねえ」
 不意に後ろから声がして、絵里は驚いて振り返った。そこには、白いドレスを着た、絵里より少し年上に見える、女の子がしゃがみこんでいた。
「お尻砂ついちゃった」
 女の子は立ち上がり、絵里は思わずその子のお面を凝視してしまう。
「ひょっとこ……」
 もうちょっと、他になかったのだろうか。こうして向かい合っていると、思わず噴出しそうになってしまう。
 女の子はちらと鳥居の方に顔を向けてから、
「『人の生涯は動き回る影に過ぎぬ。
 あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、
 舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、
 そしてとどのつまりは消えてなくなる。
 白痴のおしゃべり同然、
 がやがやわやわや、すさまじいばかり、
 何の取りとめもありはせぬ。』」
 と、言った。
「……?」
 絵里が首を傾げると、
「あたしの生みの親が書いた台詞だよ」
「……」
 絵里は、女の子の着ているドレスをもう一度見た。あたしが劇で着るものと同じ。
 もしかして、この人は……。
「夢も現実も、舞台の上では混じり合う……。
 あなた、この前ヴェローナの森にやってきたでしょう。
 この町の歴史と、花の都ヴェローナの歴史、
 その二つの間に何も接点はないけど……。
 誰かが誰かのことを思うとき、その二つは混じりあうんだよ。まるで現在と過去みたいに、
 夢と現実みたいに……」
 女の子は、ひょっとこの顔で言う。その言葉に、絵里はこの間の地震のことを思い出した。
 あの時もあたしは、ジュリエットの乳母の語る地震の話と、平塚くんと一緒にいた時に起きた地震を重ね合わせた。
 まるで、物語の中の出来事が、現実に起きたみたいだった。
「あなたは、……あなたは誰なの?」
 絵里が訊くと、
「絵里ちゃんも、よく知ってるはずだよ」
 女の子はそう言いながら、ひょっとこのお面を外そうとして――

   
    ※   


 ピピピピピピピピ……
 目覚ましの音に、絵里は目を覚ました。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
「……夢……?」
 つぶやいて、体を起こす。
 なんだか、夢を見ていた気がするけれど、あまり覚えていない。
 鳴り続けている目覚ましを止め、絵里は窓の外を見た。絵に描いたような秋晴れ。
 今日は、演劇祭本番だった。
「……絵里ー、今日遅刻したら大変でしょう、そろそろ起きなさい」
 居間からお母さんの声が聞こえてくる。
「はーい……」
 絵里は立ち上がり、のろのろと着替え始めた。


 演劇祭のプログラムは、一年生から始まり、三年、五年の順に行われる。絵里たちの五年二組は、最後から二番目だ。
 絵里たちは、教室で本番用の衣装に着替えていた。
「……大丈夫? 変じゃない?」
 絵里が不安げに自分の服を見下ろす。白いドレスは、もう何度か着ているが、今だに慣れない。絵里の他、役を与えられた女子はもう着替え終わり、最後に台詞のチェックをしている。
「大丈夫だってば。似合ってるよ」と、詩織ちゃんは笑った。
「はー、……逃げたい……」
「平気平気」
 詩織ちゃんは絵里の肩をぽんぽんと叩いて、
「自信もってよ、ね?」
「……」
「あたしも緊張してるけど、頑張るからさ」と、委員長が近づいてきて言った。委員長はナレーターをすることになっている。原作をすべて演じるとすごい長さになってしまうので、ナレーションで一部をカットしているのだ。
「……うん」
 絵里は小さく頷いた。
「おーい、まだかよー」
 不意に、教室の外から石浜くんの声が聞こえてくる。「お前ら、着替えんの遅すぎ……」
「ちょっと、開けないでよ変態」
 と、詩織ちゃんが言った。
「まだ開けてないだろ……」
「開けなくても変態」
「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ……」と、石浜くんが疲れた声で言った。
 女子全員が着替え終わったことを確認し、委員長が戸を開ける。衣装を着た石浜くんと平塚くん、その他数人の男子が入ってきた。
 平塚くんは、童話の中に出てくる王子様のような、ロミオの衣装を着ていた。細い剣を左の腰に吊り下げている。正直、小野さんの方が似合っていたと絵里は思う。平塚くんだと、いきなり町中で斬り合いをはじめるような、激しいイメージがない。ロミオにしては穏やかすぎる感じがする。
 それでも絵里は、これから二人で恋人同士の役を演じるのかと思うと、なんだかどきどきしてきた。
 じっと見ていると、平塚くんと眼が合い、思わず反らしてしまう。顔を赤くしている絵里を見て、
「頑張ろうね、笹原さん」
 と、平塚くんは言った。
「うん……」
 それでも硬い表情をしている絵里に、
「……笹原さんが台詞とちってもさ、僕がフォローするから」と、平塚くんは笑った。「だから僕が台詞とちったら、笹原さんもフォローしてよ」
「……ありがとう」
「あのね、あたし緊張しないおまじない知ってるよ」と、委員長が言った。「手の平に人っていう字を三回書いて飲み込むと、落ちつくらしいの」
「……人?」
 机の上に座り、足をぶらぶらさせていた詩織ちゃんが、それを聞いて首を傾げる。 
「なんで人を飲み込むと落ちつくの?」
「……わかんない。お婆ちゃんが教えてくれたんだけど……」委員長も由来はよくわかっていないみたいだった。
「人を飲み込むって、怪獣みたいだね」
 と、絵里は言った。
「それはいいことを聞いたなあ」
 ロミオの親友、マキューシオ役の石浜くんも、平塚くんと色違いの服を着ている。石浜くんはにやにやしながら詩織ちゃんに近づくと、急にその手首を掴んだ。
「え?」
 戸惑う詩織ちゃんに構わず、石浜くんは詩織ちゃんの手の平に、
「人、人、人……」
 と、三回指で書くと、その手を食べる真似をした。
「わ!」
 詩織ちゃんは思わず石浜くんの手を振り払い、
「……何してんのよ、変態!」
 教室中の人が振り返るくらいの大声を上げる。
「はっはっはっ、さっきの仕返し」石浜くんは偉そうに笑いながら、「おかげで落ちついただろ」
「そんなわけないでしょ! ……もう……」
 詩織ちゃんは顔を赤くして俯いてしまった。
「……ふふ、ふふふふふ、……」
「あははは、……」
 そんな二人を見て、委員長と絵里はおかしそうに笑った。
「ちょっと二人とも、笑い事じゃないよ。あたし、生きるか死ぬかの瀬戸際だったんだからね」
「死にはしないだろ……」
 と、石浜くんがつぶやいたが、詩織ちゃんに思い切り足を踏まれ、「……っ!」痛さでぴょんぴょんと教室の中を跳ね回る。それを見て、絵里はますますおかしくなり、笑いが止まらなくなってしまった。
 しばらくすると、先生が入ってきた。
「はいはい、ずいぶん楽しそうだったけど……、遅れちゃうから、そろそろ体育館に移動するわよ」
「はーい」
 みんなは声を揃え、ぞろぞろと教室を出た。
 なんか、ちょっと落ちついたかな……。詩織ちゃんには悪いけど、石浜くんに感謝しなくちゃ。
 なんか楽しいな、と絵里は思った。詩織ちゃんと話しながら廊下を歩く。こんなに楽しいの、久しぶりな気がする。
 ……でも、小野さんはいない。
 もしかしたら、本番には来るんじゃないかと、ちょっとだけ期待していたのだけれど。
 本当に、……どうしちゃったんだろう。
 ……これは夢なんだろうか、と絵里は思った。
 そうなのかもしれない。
 今こうしているのは夢の中の出来事で……、
 眼が覚めたらまた、小野さんがいて、前と変わらない日々がつづいていくんじゃないだろうか……。


『……五年一組の「かぐや姫」をご覧いただきまして、ありがとうございました。これから十分間の休憩を挟んだのち、五年二組の「ロミオとジュリエット」を上演いたします。
 重ねて申し上げます。体育館内は飲食喫煙が禁止となっておりますので、お手数ですが、所定の場所にてお願いいたします。……』
 六年生の、放送委員のアナウンスが体育館の中にひびいている。体育館の中にはパイプ椅子が整然と並べられ、ほとんどが保護者たちで埋まっていたが、休憩時間になるやいなや、ざわざわと劇の感想を話しだす。外へ出て行く人もちらほらいた。
 舞台の上には「第五十七回 第三大島小学校演劇祭」と書かれた垂れ幕が下がっている。
 グランドピアノの横に置かれたホワイトボードに、今日のプログラムが書かれている。誰か生徒の弟なのだろう、小さい男の子がそこへ落書きをしようとして、慌てた母親に連れて行かれた。空気の入れ替えのため、戸は開け放たれていて、そこからひっきりなしに人が出入りしている。先生たちは壁際に陣取り、楽しげに談笑している。
 校歌の刻まれたレリーフの下には舞台袖への入口があり、そこには「関係者以外立ち入り禁止」の紙が貼られていた。
 その向こう、積まれた段ボールや小道具、掃除用具入れなどのせいで、狭くなっている舞台袖の中で、五年二組の生徒数人が準備をしていた。初めに出てくるキャピュレット家の使用人役の男子二人は、落ちつかなげに、ボール紙でできた剣と盾をつけたまま、ぶつぶつと台詞の確認をしている。
 そこへ、裏口からひょっこり絵里と詩織ちゃんが顔を出した。
「やあやあ」
 詩織ちゃんが手を上げる。ドレスを着た絵里も「ごめんね、もうすぐ出番なのに……」と、言いながら入ってきた。
 舞台袖には役者全員が入りきらないので、裏庭の大銀杏の下に青いレジャーシートを敷いて、出番がまだ来ない人はそこで待機しているのだ。
「……なんだよ、本番前に」
 男子は、緊張しているのか不機嫌そうな顔をした。
「ちょっと、お客さんどれくらい入ってるかなあと思って、見てもいい?」
「別にいいよ」
 詩織ちゃんは戸を少しだけ開け、観客席の様子を見た。
「うわー、けっこう来てるね……」
 絵里もその横から覗き込む。もう本番間近なので、席もほとんど埋まっている。
 お母さんとお父さん、いるかな……。
 そう思い、絵里はきょろきょろと視線をさまよわせたが、まだ来ていないようだった。お父さん、ビデオ撮るってはりきってたのに、どうしたんだろう。ただ、前の運動会の時のように、ビデオを撮られて何度も何度も繰り返し、食事の時に一緒に見させられるのはうんざりだったので、絵里は少しほっとした。
「……あれ?」
 絵里は思わず声を上げてしまった。
 客席の端の方に、変な二人組がいる。
 ひょっとこのお面をかぶったドレス姿の女の子と、ピンク色の鉢巻をした蛸のお面をかぶった、背の高い男の人。
 あの子、どこかで見たような気がする……。
 自分の記憶をたどっていると、女の子が絵里の視線に気づいたのか、大きくぶんぶんと手を振ってくる。
「どしたの?」
 詩織ちゃんに訊かれ、絵里は振り返り、
「ほら、あそこに変な人たちいるよ……、なんでお面かぶってるんだろう……」
「え、どこどこ」
「あそこ……」
 絵里は指さそうとしたが、視線を外した隙に、いつの間にか二人の姿は消えていた。
「……」
「どこよう?」
「……ごめん、勘違いだったかも」
「えー、なんだ。変な人たち見たかったのに」
 ぶつぶつ言う詩織ちゃんの横で、絵里は、あの女の子をどこで見たのか、どうしても思い出せずにいた。
 その時、大きな音で開演のブザーが鳴った。二人は慌てて顔を引っ込め、舞台袖からいったん裏庭へと出た。
 ざわめきがやみ、体育館の中がしだいに暗くなる。観客たちは姿勢を正し、パイプ椅子ががたがたと動く音がした。
『ただいまより、五年二組の演目、「ロミオとジュリエット」を上演いたします。最後までごゆっくりご覧ください……』
 しばらくして、ゆっくりと幕が上がる。
 照明に照らされて、舞う埃が光っている。すでに舞台に上がっている、使用人役の男子二人が会話を始めた。
『なあ、グレゴリ、石炭かつぎなんて仕事は真平だな。』
『そうだとも、そんなことしたら、俺たちはコリアになっちまうからな。』
 ……
 舞台はヴェローナ、花の都の物語。
 お互いへの思いのために、
 自らの命を絶った、恋人たちの物語……。


 裏庭は、銀杏の匂いであふれかえっていた。掃除当番がさぼっているのか、地面には落ち葉がじゅうたんのように敷き詰められていたし、誰かが面白がって踏んだのだろう、割れたギンナンの実がそこら中に散らばっていた。
 絵里は、さくさくと音を立てる落ち葉を踏んで、焼却炉のそばを通り、渡り廊下の方へと歩いていた。本番中のため、校舎は人もまばらだ。
 ……うう、やっぱり本番前にトイレ行っておけばよかった……。
 絵里は思う。
 あの時は緊張していて全然気にならなかったけれど、いざ始まってみると、意外とリラックスして舞台に立つことができた。
 前半の自分の出番は、大きな失敗もなく演じることができた。小野さんのいつかの言葉を思い出しながら、できるだけ、観客席に語りかけるような調子で台詞を言った。
『燃えさかる足をもった馬たちよ、急いで駆けて、
 太陽神の寝所に行っておくれ。もし御者が、あのフェイソンのようであれば、
 お前たちに激しく鞭をあて西のほうへと駆けさせ、
 暗い夜をすぐにでもここに持ってこさせようものを!』
 お客さんたちの視線もあまり気にならなかった。
 舞台袖に戻ると、詩織ちゃんと委員長が褒めてくれた。一安心したところで、急に尿意が襲ってきたのだ。
 そういえば、朝も家でトイレ行くの忘れちゃってたな。本番のことで頭がいっぱいで、それどころじゃなかったから……。
 今、劇の中では、ジュリエットは薬を飲んで仮死状態になり、すでに納骨堂へ運ばれたところだ。ロミオが迎えに来る前に、トイレを済ませて戻らなくてはいけないので、あまり時間はなかった。
 ドレスを着たままでおしっこしたことないから、ちょっと不安だけど……。濡らさないようにしないとなあ。
 渡り廊下から、薄暗い校舎の中へ入る。少しだけ眼がチカチカした。
 いつもなら自分たちの教室がある、三階の女子トイレを使うのだけれど、急いでいるのでそうも言っていられない。低学年がいつも使っているトイレに入って用を足し、絵里はようやく少し落ちついた。
 体育館へと戻りながら、次の場面の段取りを頭の中で確認していると、誰かの話し声が聞こえてきた。昇降口には、緊急の連絡用に公衆電話が二台置いてあるので、そこで電話をしているのだろう。
 別に珍しいことでもない。絵里はそのまま通りすぎようとしたが、
「……そう、……じゃあ、やっぱり俺も行ったほうがいいか……」
 声に聞き覚えがある気がして、立ち止まる。
 下駄箱の向こうに見える、受話器を持った後ろ姿。白髪の混じり始めた髪の毛を気にして、いつも野球帽をかぶっている。
 お父さん。
 観客席にいないと思っていたけれど、こんなところにいたんだ。やっぱり来てはいたんだな。
「……わかった。そう、……間に合わないかもしれないけど……」
 その口調が、今まで聴いたことがないくらいに、真剣なものだったので、絵里はひどく不安になった。
 何か、よくないことが起きているような気がする。
 話が終わったらしく、お父さんが受話器を置いて振り向くと、絵里と眼が合った。
「……絵里、どうしてここに。舞台は?」
「お父さん、何かあったの?」
 と、絵里は訊いた。
「……」
 お父さんは黙っている。
 どうして、……どうして、何も言ってくれないの?
 絵里は、不意に思い当たった。
 ――いつどうなるかわからないから、覚悟はしておいてね。
 いつかのお母さんの言葉。
「……もしかして、お婆ちゃん……」
 お父さんは何も答えずに、絵里の頭を撫でた。それから、大きく溜息をついて、
「こんな時にごめんな。……さっき家を出る前に連絡が来て、お婆ちゃんもう危険な状態らしいんだ。急に容態が悪化したみたいで……」
 そこで一度言葉を切って、
「今、お母さんは一人で病院に行ってる。でも、……お母さんの家って、絵里も知ってると思うけど、あんまり仲が良くないだろ。だから、入院してからもそうだったけど、お母さんがいろんなこと一人でずっとやってて、……あんまり絵里には言いたくなかったみたいだけど」
「……」
 うすうすは気づいていた。絵里がお見舞いに行っても、誰かと会うことはなかったし、枕元に置かれたお見舞いの時に書くノートにも、絵里とお母さんの名前しか並んでいなかった。
「だから、お父さんも、ひとまず手伝いに行かなくちゃいけなくなっちゃったんだ。……せっかくの絵里の主役なのに、……最後まで見れないのは、ほんとに残念なんだけど……」
「あたしは?」
 絵里は言った。
「え?」
「……あたしも、お婆ちゃんに会いたい」
 お父さんは困った顔になり、
「でも、いっしょに来ちゃったら、劇はどうするんだ」
「……それは」
「な。だから、お父さんとお母さんに任せて大丈夫だから。……劇が無事終わったら、病院の場所わかるだろ? そしたら来てくれればいいよ。お婆ちゃんも、きっと喜ぶと思うから」
「……」
 お父さんは、無言で俯く絵里の頭をもう一度撫で、
「そのドレス似合ってるな。……あんなにちっちゃかった絵里が、もう五年生なんて嘘みたいだよ」
 と言った。
「……そんなの、今さらだよ」
「そうだな」
 お父さんは絵里に財布から出した千円札を握らせ、終わったらバスで病院まで来なさい、道はわかるだろ? と言った。
 絵里が頷くと、
「じゃあ、お父さんもう行くからな、……頑張ってな」早口で言いながら、靴を履き替えて校門を出て行った。
 その後ろ姿を見送ってから、絵里は踵を返して廊下を歩き出す。
 ……大人って、
 大人って、ほんとに時々自分勝手だよ……。
 絵里は口の中でつぶやき、手の中の千円札をぎゅっと握り締めた。


「絵里ちゃん、なんか顔青いけど大丈夫?」
「え、……そんなことないよ」
 詩織ちゃんに顔をのぞきこまれ、絵里はあわてて首を振った。舞台袖には、絵里と詩織ちゃん、委員長がいた。舞台では、ロミオ役の平塚くんが、薬屋から自殺するための毒薬を買おうとしているところだった。
「ちゃんとトイレ行ってきた?」
「大丈夫……」
「落ちつけば、平気だよ。さっきもちゃんとできてたんだから」
「うん、ありがと」
 絵里は言ったが、お婆ちゃんのことが気になって、落ちつくことなんてできそうになかった。
 掃除用具入れに寄りかかっていた委員長が近づいてきて、絵里の手をぎゅっと掴んだ。絵里が驚いて思わず委員長の顔を見ると、
「絵里ちゃん、……」ささやくような小さい声で、「絵里ちゃんは、あたしのこと嫌いかもしれないけど、……あたし、本当にうれしかったの。
 絵里ちゃんが、あたしの家にまで来てくれたこと。もしかしたら、あのままずっと、ちゃんと話せないまま、卒業しちゃうのかもしれないと思ってたから……。
 だから、ええと、上手く言えないけど……、」 
「……ありがとう」
 と、絵里は言って、委員長の手を握り返した。「嫌いじゃないよ、委員長のこと、嫌いじゃない……」
 あのことは忘れられないし、何も知らなかった頃に戻ることはできないかもしれないけど……。
 それでも、一緒にはいられる。
「二人でなに内緒話してるのよ」詩織ちゃんが言った。
「……ひみつ」
「えー、ずるいー」
 と、詩織ちゃんは頬をふくらませ、絵里と委員長は小さく笑った。
「……そろそろ準備しなくちゃ」と、絵里は言った。二人に向けてもう一度ありがとうと言ってから、リハーサル通り、観客席からは見えないように、舞台奥に垂らされた布の向こう側へスタンバイする。
 舞台で交わされる会話を布越しに聞きながら、絵里は自分の心臓の鼓動を感じていた。
 はあ……、
 大きく深呼吸をする。
 色々なことがありすぎて、頭がついていっていない気がする。
 ……お婆ちゃんは、大丈夫だろうか。
 でも、これからラストシーンだ。ちゃんと集中しなくちゃ。……お婆ちゃんのことは気になるけど、最後までやりきらないと。
 舞台ではもう、いつの間にかパリスとロミオのやりとりが行われている。
『そんな頼みがきかれるものか。
 貴様は重罪人なのだ、俺はあくまで逮捕する。』
『まだ私を怒らせようというのか? それじゃ、覚悟するがいい!』
 音楽が流れ、立ち回りが始まる。絵里は、平塚くんと、パリス役の男子が舞台で斬り合いをするところをイメージしていた。……やがて音楽が止まる。いよいよだ。
 平塚くんの姿が目の前にあらわれた。
「……大丈夫?」小声で聞かれ、絵里は頷く。絵里はその場に横になった。平塚くんが屈み込み、絵里を抱き上げようとする……。平塚くんは少しよろけたが、なんとか絵里の体を持ち上げた。
「……大丈夫?」
「平気、平気……」
 少しふらふらしながら、平塚くんは舞台に戻り、リハーサルでやったとおり、真ん中に絵里の体を横たえた。
『ああ、ジューリエット、
 なぜそんなにまだ綺麗なのか? もしかしたら、
 あの死神が人間でもないのに妙に色気づいたのではないか。
 あの痩せた恐ろしい姿の怪物めが、この暗い所で、
 お前を愛妾にしようとして囲っているのではないのか。
 それを思うと俺はぞっとする。だから、お前といっしょにここに留まり、
 この仄暗い夜の宮殿から二度と外へは出ないつもりだ。』
 平塚くんのその台詞を聞きながら、絵里は思い出した。あの日、平塚くんの家に泊まった日、いっしょに台詞の練習をした。
 まさか、こんなことになるなんて思ってもみなかった。
 けれど実際にこうして恋人どうしの役をやってみると……、なんだかひどく冷静になる自分を感じていた。
 もちろん、嬉しくないわけじゃない。
 それでも、どうしても小野さんのことを考えてしまう。小野さんの凛々しい立ち振る舞いや、よく通る声のことを、思い出してしまう。
 薄目を開けて平塚くんの顔を見上げながら絵里は思った。
 ……あたしは、男の子を好きになるということに、どこか憧れがあったのかもしれない。だから、平塚くんのことを本当に好きだとは言えなかったのかもしれない。
 でも、ここからここまでが本当の気持ちで、ここからここまでが嘘の気持ちだなんて、誰に区別ができるのだろう。
 どこまでがお芝居で、どこまでがそうじゃないかなんて、誰にたしかなことが言えるのだろう。
 たぶん、それはいつだって混じりあう。
 まるで、夢と現実が混じりあうみたいに……。
 長台詞を言い終えると、平塚くんは毒をあおって絵里のそばに倒れた。修道士たちが角灯を持って、舞台袖から駆け寄ってくる。
「……、」
 その時、平塚くんが何かを小声でつぶやいたので、
「……え?」
 絵里は思わず聞き返した。
「……大丈夫? さっき、すごい緊張してたみたいだったから」
「……見てたの?」
 観客席には顔を背けているし、修道士役の男子が大声で台詞をしゃべっているので、二人が喋っているのは気づかれなかった。
「……気になってさ」
「……お婆ちゃんが、具合悪いんだって。だから、お父さんとお母さんが今病院行ってて……」
「……そっか」
「……心配してくれたの」
「……そりゃ、気になるよ。自分のこと、好きって言ってくれた女の子のことなんだから」
「……」
「あのね、好きって言ってくれて嬉しかったよ」と、平塚くんは言った。「僕は、本当に……笹原さんのことが嫌いとかじゃなくて、女の子のことを、そういう風に見たことがなかったから……」
 絵里は何も言わなかった。
 ロミオとジュリエット――、死んでいるはずの二人が、こうして会話をしているのは、なんだか変な感じだった。
「だからさ、中学、一緒だろ? 受験しないって言ってたし」
「うん」
「しばらく一緒にいれば、そう思えるようになるかもしれない…・・・」
 その平塚くんの言葉に、
「そんなのずるいよ」
 と、絵里は言った。
「……」
「そんなの、あたしにはもう関係ないもん」と、絵里は言った。「あたしは、平塚くんよりももっとカッコいい人を好きになって、……平塚くんが中学になって、あたしのことを好きになったって、もう、……」
 絵里は言いながら、急に悲しくなってきた。
 何が悲しいのかわからない。目じりからこぼれた涙が舞台の床に落ちた。
 拭うことはできなかった。
 今、あたしは、死んでいるはずなのだから。
「……そっか」と、平塚くんは言った。「ごめん、僕、笹原さんの気持ちとかぜんぜん考えてなくて……」
「ううん」
 絵里は笑った。
「……でも、ありがとう」


 盛大な拍手が鳴り響く中、絵里は一人、舞台袖から体育館を抜け出した。
 早くいかないと、間に合わないかもしれない。事情は先生や、詩織ちゃんたちには説明してあった。衣装のドレスを着たままだったけれど、着替えている時間も惜しかった。
 すれ違う保護者の人に怪訝な顔をされたが、そんなこと、構っていられなかった。
 ドレスの裾を踏まないように気をつけながら、小走りで校門へと向かう。
 ええと、ここから一番近いバス停ってどこだっけ……。
 そう考えていると、どこからか蹄の音が聞こえてきた。絵里は眼を丸くしてそちらに顔を向ける。
 車道をものすごい勢いで、栗毛の馬が走ってきた。
「……は?」
 自分の目を疑う。
 どうして、ここを馬が走ってるの? まったく意味がわからない。どうしていいのかわからずに絵里はぼんやりしてしまう。馬は大きくいなないて、校門の前で泊まった。馬の背には、お面をかぶった男の人と女の子が乗っていた。自転車みたいに二人乗りしている。男の人は、さっき平塚くんが着ていた王子様の衣装と同じものを着ていて、女の子は、絵里の白いドレスと同じものを着ている。
 女の子は男の人の腰の辺りを抱いたまま、
「やっほー」
 と、明るい声を上げた。
「……」
 絵里は無言でそれを見上げる。
 何この、怪しすぎる二人組……。
「怪しいものじゃないよ」と、ひょっとこのお面をかぶった女の子は言った。「絵里ちゃん急いでるんでしょ? バスよりこっちのが速いから、乗せてってあげようと思ってさ」
 ……この子、
 絵里は急に思い出した。
 そういえばこの子、夢で会った……。
「ほら、乗りなよ」女の子に手を差し出される。絵里はしばらく躊躇っていたが、おずおずとその手を取った。その途端、細腕からは想像できない力で、ひょいと馬上へ引っ張り上げられる。
「じゃあ、しっかりつかまっててね」
 女の子は言って、
「お願い」
「ハッ!」
 男の人はその合図とともに鞭をふるい、馬が猛烈な速さで走り出した。絵里は振り落とされそうになり、女の子の体をぎゅっと抱きしめる。馬は車道を走り続ける。
「……あたしが、どこ、行くか知ってるんですか?」
 絵里が訊くと、
「お婆ちゃんの入院してる病院でしょ?」女の子はなんでもないことのようにそう返す。
 どうして知っているのかわからなかったが、周りの景色を見るかぎり、道順は合っている。迷子になったりすることはなさそうだ、絵里は少しだけ安心した。
 なぜか車は一台も通っておらず、人通りもない。どうして? 普通の平日の昼間なのに……。それに、お面かぶったままで馬に乗ったりして、どこかにぶつかったりしないのだろうか。
 ていうか、その前に。
「……あなたたち、誰なの?」
 絵里は必死にしがみつきながら、なんとか声を出す。
「あたしは、ジュリエット」と、女の子は軽い調子で言った。長い髪が風にばさばさと揺れている。「この人はロミオ、あたしの夫ね。絵里ちゃんも、よく知ってると思うけど……」
「……本物?」
 絵里は思わずそうつぶやいたが、すぐに否定するように頭を振った。
 いや……、本物というか、そもそもロミオとジュリエットは実在の人物ではない。シェイクスピアの創作だ。
「……君は、この一ヶ月の間、僕たちのことをずっと考えていてくれていただろ?」たずなを握ったまま、男の人が不意に言った。「だからその間……僕たちはずっと、君のそばにいた。
 誰かを思うことは、その人のそばにいることと、すごく似てるんだ」
「夢の中でも会ったしね……。さっきも、舞台見させてもらったよ。絵里ちゃんのジュリエット、素敵だった」
 わたしにはあんまり似てないけどね、と女の子は笑った。
「誰かが、物語の中の人のことを考える時、……その分だけ、僕たちも、君たちのことを考えているんだよ。
 ……だからこれは、お礼なんだ。僕たちと一緒にいてくれた、そのお礼」
 風を切って走り続ける馬は電車の高架下を通り過ぎた。速度をゆるめずに坂を駆け上っていく。
「……」
「僕たちは、誰かが僕たちのことを覚えているあいだだけ、存在していられるから……」
 男の人は言って、絵里の方を振り返った。
「だから、……大人になっても、たまには僕たちのことを思い出してくれ」
 病院には、あっという間に到着した。駐車場に馬を入れると、ロミオは絵里を抱き上げて、ゆっくりと地面に下ろしてくれた。馬が速すぎて、乗り物酔いするかと思ったけれど、意外と平気だった。
 絵里は、馬の顔をじっと見る。……こんなに近くで見るの初めてだけど、なんか可愛いかも。絵里に見つめられ、ブルルルルル……、と馬は一声鳴いた。
「じゃあ、僕たちはこれで」と、ロミオは馬上から声をかけた。
「……あの」
「ん?」
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
 ジュリエットは言って笑い、ロミオは軽く頭を下げた。絵里も深々と頭を下げると、病棟へと駆け出していく。建物に入る前に、ちらと後ろを振り返ったが、もうすでに二人の姿は馬ごと消えてなくなっていた。
 絵里はそのまま自動ドアを抜け、受付で事情を説明してからエレベーターへと急ぐ。なかなか来ないのにイライラして、横にある階段を早足で駆け上がった。……何人かの、点滴をつけた患者さんや看護士さんとすれ違い、やがてお婆ちゃんのいる病室の前までたどり着いた。
 間に合っただろうか。
 ……お婆ちゃん、……まだ、大丈夫かな。
 荒い息を整えてから、絵里はゆっくりと戸を開けた。

  
   ※


 ミーン、ミンミンミンミーン、ミンミン……
 蝉の声が聞こえている。
 絵里はいつの間にか、見覚えのある場所に立っていた。
 二階建ての一軒家に、小さい庭がついている。小さな門を開けて中に入ると、紫陽花の茂みが見える。小さい頃、お婆ちゃんと一緒に、葉について蝸牛を眺めたり、枇杷の実をとって食べたりしたことを思い出す。
 トタンの屋根は、雨が降るたびに音を立て、縁側に座って、二人でその音に耳を澄ませたりした。
 ここは、お婆ちゃんの家だ。
 絵里がもっと小さい頃……、幼稚園時代や、小学校に入ったばかりの頃は月に二三回は遊びに来ていたが、大きくなるにつれ、だんだん足が遠のくようになった。
庭から縁側へ直接上がり、そのまま畳敷きの居間へ入る。台所の方から、水音が聞こえ、絵里はそちらへ足を向けた。
 鼻歌を歌いながら、流しでグラスを洗っている女の子がいる。女の子は水を止めると、冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いでから、
「久しぶりだね」
 そう言って小野さんは振り返った。
「……小野さん」
「絵里ちゃんも飲むでしょ、麦茶……」
 絵里は頷いて、冷たいグラスを受け取った。そのまま居間へ戻り、卓袱台を挟んで向かい合う。
 軒先に吊るされた風鈴が、時おりチリン……、と鳴った。
 絵里は、グラスの中の氷を見つめながら、俯いていた。
 聞きたいことは山ほどあった。
 でも、何から聞いたらいいのかわからない。 
 小野さんは麦茶を一口飲むと、
「……ここはね、絵里ちゃんも知ってると思うけど、…絵里ちゃんのお婆ちゃんの家。
 昔、よくここでお婆ちゃんに本を読んでもらってたよね。怖い話だと、絵里ちゃん一人でトイレ行けなくなるくせに、そういうのもすごく好きで、よくおばあちゃんにせがんでは、夜、トイレについてきてもらってた」
「……どうして、小野さんがそのこと知ってるの?」
「何から説明したらいいかなあ……」
 小野さんは天井を見上げた。
「絵里ちゃんのお婆ちゃんはね、……病気で入院してるあいだ、よく、自分の小さい頃の夢を見てたの。
 年を取ると、やけに小さい頃のことばかり思い出したりするでしょ? そのせいかもしれないね。
 ほとんど毎晩、そんな夢を見るうち、……絵里ちゃんと、絵里ちゃんの同級生になって、いっしょに遊んだりする夢が、その中に混ざりはじめた。たぶん、絵里ちゃんがよくお見舞いに来てくれてたのが、嬉しかったんだと思う」
「……」
 絵里は、黙って話を聞いていた。
「もちろん、本当にはそんなことはなかった。
 だって、お婆ちゃんが小学生だったのは、もう何十年も前で、絵里ちゃんとは年が違いすぎてるもんね。
 でも、夢の中でなら、いっしょに小学生になって、遊ぶことができた」
 小野さんは立ち上がり、縁側から庭を眺めた。
「それがあたし。
 お婆ちゃんの夢の中での姿、……それが、あたしなの。
 夢の中の存在が、次第にかたちをもって、……現実と夢のはざまで、生きられるようになった」
「小野さんは、お婆ちゃんの小さい頃……、小学生の時の姿なの?」
 絵里は訊いた。
「まるっきり同じってわけじゃないの。……でも、そう考えてあんまり問題はないと思う」
 小野さんが何者かということも気になってはいた。
 でも、それよりも……絵里にはもっと聞きたいことがあった。
「……どうして、」
「え?」
「小野さん、どうしていなくなったりしたの?」
「もう、そろそろ限界なの」
 小野さんは苦笑して、
「夢は、見る人がいなければ続いていかない、……お婆ちゃん、もうすぐ、この世からいなくなっちゃうから」
 絵里は、その言葉を聞いて、急に実感した。
 やっぱり、お婆ちゃん死んじゃうんだ……。
「もう少し時間はあったんだけど……、屋上で、絵里ちゃんの話を聞いた時、すごく後悔したの。
 あたしのせいで絵里ちゃんのことを傷つけてしまったのなら、……あたしは、最初から、絵里ちゃんのところへ来るべきじゃなかったんじゃないかって」
「……そんなことない」
 絵里は言った。
「でも……」
「そんなことないって言ってるじゃん」
 絵里の口調は強くなった。
「傷つけちゃうから、最初から一緒にいなければよかったなんて、……そんなの、間違ってるよ。
 一緒にいれば、傷つくことも、悲しいこともあるよ。
 でも、……それでも、一緒にいたいんだもん。
 あたし、この一ヶ月で色々なことがあって、……そういう風に思えるようになったの。
 そう思わせてくれたの、小野さんなんだよ」
「……」
「小野さん、この間、最後まで聞かなかったでしょ」
「……」
「小野さんのおかげで、あたし、頑張れたんだから……」
「ありがとう」
 小野さんは言った。「あたしも、……絵里ちゃんと、みんなといられて、すごい楽しかった」
 二人はしばらく黙っていた。グラスの中で、溶ける氷がカランと音を立てた。 
「……あたし、そろそろ行かなくちゃ」
 小野さんが不意に言った。
「もう?」
「うん。……絵里ちゃんも、いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう」
「……」
「そんな顔しないで、ね?」
「あたし、忘れないからね」と、絵里は言った。「小野さんのこと、この一ヶ月のこと、絶対忘れない……」
「うん」
 小野さんは笑って、
「あたしも忘れない。……絵里ちゃんが大人になっても、夢の中でなら、またきっと会えるから」


   ※


 絵里は、気がつくと病室の前に立っていた。落ちついて、ゆっくりと戸を開ける。ベッドの周りにいた、お父さんとお母さんがこっちを見た。
「絵里……」と、お母さんが言った。
 絵里は答えずに、お婆ちゃんのベッドに近づく。お婆ちゃんは眼をつぶっていたが、絵里が皺だらけの手を取ると、ゆっくりと眼を開けた。
「……絵里ちゃん、よく来てくれたねえ」
「お婆ちゃん」
 絵里はその目の奥をじっと見た。
「お婆ちゃん、あたし……」
「何も言わなくていいんだよ」
 と、お婆ちゃんは言った。
「最後に、……楽しい思い出をありがとうね。あたしの人生、……本当に、生まれて初めて、ちゃんと生きた気がするよ」
「……」
「……ほんとに、お姫様みたいだねえ」お婆ちゃんは絵里のドレスを見ながら言った。「ありがとう、ほんとに、ありがとうね……」
 お婆ちゃんが亡くなったのは、その数時間後だった。