ロミオとジュリエット 1話

  第一話
 

 絵里がバスから降りると、目の前には夕焼けが広がっていた。
 駅前にある駐輪場の時計は六時をまわっていた。絵里はそれを見て、自分が思ったよりも病院に長居してしまったことを知った。
 今日の晩ご飯、なんだったっけな。昨日カレーだったから、その残りかもしれない。
 そんなことを考えていると、お腹が小さく鳴った。
 早足で家までの道のりを歩き出す。信号が赤だったので立ち止まり、横断歩道の向こうに建つビルの、進学塾の大きな看板を何とはなしに見上げた。同じクラスの子も何人か通っているらしいが、絵里は中学受験をしないので関係がない。薄暗くなりはじめた空に光るネオンは、なんだか安っぽいような感じがした。
 駅前の本屋の店先を冷やかして、いつも買っている少女漫画雑誌の今月号が発売されていないことを確かめてから、絵里は図書館の方へ足を向けた。図書館裏の桜並木を通った方が、絵里の住んでいる団地へは近道になる。
 もう八月も二十日を過ぎていた。窓を開け放している家からは、テレビの音が外にまで聞こえてくる。
 蝉の声も、心なしか過ぎていく夏を惜しんでいるようにも聞こえる。
 絵里は、夏休みの間じゅう、こうしてお婆ちゃんのお見舞いへ行くほかは、図書館で本を読んだり、ひとりで川沿いを散歩したりしていた。
 もう、夏休みも終わっちゃうんだな……。絵里がそんなことを考えながら歩いていると、
「……あ、笹原さん?」急に声をかけられた。
「え?」
 前から小走りで近寄ってきたのは、同じクラスの平塚くんだった。家で飼っているのだろう、柴犬のリードを手にしている。犬と一緒に走ってきたが、犬が勢いあまって絵里を追い越してしまったので、平塚くんはリードに力を入れ、犬を立ち止まらせた。引きずるようにして戻ってくる。
「こいつ、元気ありあまってるんだよね……」
 空いている方の手で、ずれた眼鏡をなおし、人なつっこい笑みを浮かべる。
「……」
 絵里は、平塚くんの向けてくる笑顔を、まともに見れなかった。
 あんなことがあった後で何を話したらいいのかわからなかった。それに、平塚くんが普通に話しかけてくることにも戸惑っていた。
「笹原さん、今帰り?」
 平塚くんの言葉に、足元の犬が一声吠えた。
「お前にはきいてないよ」
「……その子、平塚くんちの犬なの」
「うん」
「なんていうの?」
「柴犬」
「いや、種類じゃなくて名前……」
「シバ」
 それを聞いて、絵里は思わず吹き出してしまった。
「それ、そのまますぎない?」
「なんかカッコいいじゃん」平塚くんはそう言って、「笹原さんもう宿題終わった? ぼくぜんぜんやってなくてさあ……」
「大丈夫なの、もうあとちょっとしかないけど」
「大丈夫じゃない」
 平塚くんはそう言うと、大げさに肩を落とした。「日記も最初の三日くらいしか書いてないし。もう天気とか覚えてないしさあ」
「図書館で前の新聞見たらわかると思うけど」
 絵里の言葉に平塚くんは、ああ、という表情になり、
「笹原さん、頭いいなあ」
「そんなの、誰でも思いつくよ……」
 ちらと見ると、シバは、黒い瞳で絵里の顔を見上げていた。
「でも、この子おとなしいね」
「ふだんこんなんじゃないけどなあ。笹原さんがいて緊張してるのかも」
「かわいい」
 撫でてみたい、と思ったけれど、やっぱりちょっと怖かったので絵里は何も言わなかった。
 そのうち、移動販売のパン屋の車が近くの公園の入口にとまり、スピーカーで案内を流し始めた。子供を遊ばせていた近所のお母さんたちが何人か集まってきた。
「あ、ぼくそろそろ帰らないと」と、平塚くんは言った。「シバ、行くぞ」
 そう言ってリードを引っ張るが、シバはなかなか動こうとせず、じっと絵里のほうを見ていた。
「こいつ、笹原さんのこと気に入ったのかもしれない」
「……」
「じゃあ、また学校で!」
 シバを無理やり引きずっていく平塚くんの後ろ姿を、絵里はしばらくの間ぼんやりと眺めていた。
 それから、ゆっくりと歩き出す。
 絵里は平塚くんのことが好きだった。自分でも古くさいとは思っていたが、どうしても面と向かって告白ができなかったから、昔の少女漫画みたいに、手紙を書いて下駄箱に入れた。
 でも、それから何も返事をもらっていない。
 まるで何事もなかったかのように接してくる平塚くんに、たぶんあたしはふられたんだろうな……、と絵里は思っていた。
 雑草の生い茂った角の空き地まで来ると立ち止まり、絵里はさっきのやりとりを思い返してみる。
 でも、こうして久しぶりに喋ってみると、意外と大丈夫なのかもしれない。
 あたし、ちゃんと普通に喋れてたよね……?
「大丈夫、大丈夫……」
 絵里は深呼吸をひとつすると、また歩き出した。不意に風が吹き、髪を手でおさえる。空き地に咲く立葵が揺れた。
 夏休みが終わる。


     ※


 絵里は、しわひとつなく整えられた保健室のベッドに腰かけると、窓越しに外の様子を眺めた。花壇に並んでいる枯れかけた向日葵の向こうには、校庭に整列している全校生徒の姿が見える。防災頭巾を手に持ち、しゃがんだまま校長先生の話を聞いている。みんなずいぶんと暑そうだった。
 空調が白いカーテンをかすかに揺らしている。絵里が起き上がったことに気づいた保健の先生が近寄ってきて声をかけた。
「具合、どう?」
「あ……、だいぶよくなりました」
「ちゃんと水分とってね」と、保健の先生は言って、手にしたマグカップのコーヒーをすすった。「それにしても、こんなに暑いのに外で朝礼なんて、そりゃ体調悪い子も出るの当たり前よね。……あたしも、あなたたちくらいの頃、朝礼なんてやめればいいのにと思ってたわ」
「……はあ」
 何と答えればいいのかわからず、適当に相槌をうつ。
防災の日が九月一日なの、どうしてなのか知ってる?」
「知らないです」
関東大震災があったから、それをきっかけに防災の意識を高めようっていうことなんだって」
 先生はどうでもよさそうに言うと、マグカップを事務机に置いた。
「そうなんですか」
「最近、地震多いもんね。……そうだ、先生に連絡してこなくちゃいけないわね。ごめん、ちょっと待ってて、ええと……」
 先生はそこで言葉を切ると、
「あれ、あなたのクラスと名前、なんだっけ? 最近記憶力悪くてねえ……、年かしら」
「……五年二組の、笹原絵里です」
「ありがとう。じゃ、しばらくゆっくりしてて」先生はそれだけ言い残すとそのまま廊下へ出ていった。スリッパの音が遠ざかっていく。
 絵里はしばらく外を眺めていた。
 朝、学校へ行く通学路の途中で具合が悪くなり、家に戻ってもお母さんは仕事でいないことがわかっていたので、なんとか学校までたどり着くと、教室へ寄らずにそのまま保健室へ来た。先生には軽い熱中症と診断され、そのまま朝礼には出ずに、ずっとここで休んでいた。
 だから、今日はまだ平塚くんに会っていない。ほっとした反面、どこか物足りないような気持ちもあった。
 先生はなかなか戻ってこない。
 手持ちぶさたになった絵里は、足元に置いた手提げ鞄から、図書館で借りた『ロミオとジュリエット』の文庫本を出した。ぱらぱらと頁をめくる。あらすじくらいは知っていたけれど、ちゃんと読み通したことはない。
 絵里たちの通う第二大島小学校では、毎年十月になると、演劇祭と展覧会が交互に開催される。去年は展覧会が行われ、生徒たちが授業で描いた絵や書道の作品、工作などが体育館に展示されていた。
 今年の演劇祭で、五年二組は『ロミオとジュリエット』の劇をすることになっていた。夏休み前に演目は決まっていたのだが、それ以上のことは何も決まっていない。夏休み中に練習しているクラスもあったと聞くし、そろそろ役柄くらいは決めなくてはまずいだろうと思う。
 平塚くんは、ロミオに選ばれてもおかしくはないと思う。もし、そうなったら、ジュリエットはあたしが……。
 絵里は首を振った。
 何考えてるんだろ、あたし、もうふられたも同然なのになあ……。
 内心でそう思いつつも、絵里はジュリエットがはじめて出てくる場面を開いてみた。ジュリエットの母親、キャピュレット夫人が、乳母にジュリエットはどこにいるのかと訊ね、それに答えてジュリエットが登場するところだ。
 外で鳴いている蝉の声が、窓越しに少しくぐもって聞こえている。絵里は、小さな声で台詞を読んだ。
「『え? 何なの? 呼んでいるのはだれなの?』」
 すると、絵里の声にかぶさるように、
「『お母様ですよ。』」
 自分以外の声が突然聞こえ、絵里はびくっと体を震わせた。
 え、空耳……かな? 
 でも、たしかに誰かの声が聞こえたような気がする……。
 静まりかえる保健室の中には、自分の息遣いと空調の音だけがひびいている。室内をきょろきょろと見回す。今まで意識していなかったけれど、隣のベッドに白いカーテンがひかれていることに気がついた。
 耳を澄ませていると、確かにその向こうから、くすくす、という小さな笑い声が聞こえてくる。
 先生は何も言っていなかったけれど、あたし以外にも誰かいるのかな……。
 確かめてみよう、と絵里は思った。今度は心もち声を大きくし、つづけて台詞を読み上げる。
「『あら、お母様。何かご用?』」
 すぐに、カーテンの向こうから声が聞こえてきた。
「『お話があります。ばあや、あんたはちょっと席をはずして。
 二人だけで内密に話をしたいから。――ばあや、やはりいてちょうだい、
 あんたにも内内の話を聞いてもらったほうがよさそうだから。
 知ってのとおり、娘ももう年頃になったのだけどね。』」
 やっぱり、絵里の台詞に合わせて受け答えをしている。
 絵里は胸をどきどきさせながら、しずかにベッドから立ち上がり、足音を立てないように隣のベッドに近づいた。
 声はなおも続ける。
「『……地震の年から数えて今年は十一年目でございましょう、
 ちょうどあのとき、――忘れようたって忘れられませんですよ――
 一年三百六十五日、その中でも、ちょうどあの日に乳離れをなさいましたんですよ。
 あのとき、あたしは乳首ににがよもぎの汁を塗ってましてね、
 そして鳩小屋の壁の所で日向ぼっこをしておりましたんですよ。
 旦那様と奥様はちょうどマンテュアにいらしてご不在中のことで――
 いいえ、ね、あたしの頭はまだぼけてはいませんですよ――』」
 絵里は目の前のカーテンを、いきおいよく開いた。
 背の低い、まるで男の子みたいに髪を短くしている女の子がベッドの上に腰かけ、足をぶらぶらさせていた。黄色い半袖のTシャツに短パンという格好で、服装も男の子みたいだ。声を聞いていなければ、もしかしたら間違えていたかもしれない。
 女の子は驚いた様子も見せず、ゆっくりと首を回して絵里の方を向き、
「……そう、あれからもう十一年以上も経ったんでございますよ」
「……」
 絵里はじっと女の子を見ていた。
 この子、本も何も持ってない。そしたら、さっきの台詞ぜんぶ暗記してるってこと……?
 女の子は不意ににっこり笑うと、
「どうしたの? ジュリエット」
「……」
「さっきあなた、ジュリエットの台詞言ってたでしょう」
 絵里はそれには答えずに、
「……何してるの、ここで」
「絵里ちゃんと同じ、具合悪くなったから休んでたんだよ」
「え」驚いて、思わず目をしぱしぱさせる。「どうして、あたしの名前知ってるの?」
「だって名札に書いてあるじゃない」
 絵里はあわてて、胸のところにつけた名札を手で隠したが、今さら隠したところでどうなるものでもないことに気づいた。でも、なんだか恥ずかしくてそのまま手を胸元にあてていた。
「長い台詞言ったら喉渇いちゃったよ。……よっと」 
 女の子は勢いをつけてベッドから飛び降りると、事務机に近づき、先生が残していったマグカップを手に取った。
「あ、それ……」
 絵里が止めようとしたが、女の子は一気に飲み干そうとして、大きく咳き込んだ。案の定、女の子はげほげほとむせ始めた。
「ちょっと、大丈夫?」
 咳き込んでいてしゃべれないみたいだ。涙目になっている女の子の背中を、絵里はゆっくりさすってあげた。
「……はあ、はあ……」女の子は息もたえだえという様子で、「……コーヒー、苦い……」
「コーヒーだもん」と、絵里は呆れたように言った。
 女の子はようやく落ちついたのか、ふうと大きく深呼吸をした。
「ごめんね、ありがとう」
「別にいいけど……」
 言いながら、改めて女の子を見る。絵里は、その顔にどこか見覚えがあるような気がした。
 ……あたし、この子とどこかで会ったことあったっけ?
「コーヒー、お砂糖いれないとやっぱり無理かも」
「ジュースの方がいいよ、ぜったい」と、絵里は言った。「ねえ、それより……、あなたの名前、なんていうの?」
「松子だよ、小野松子」
 松子だなんて、なんだかおばさんくさい名前……。
「小野さんは、このへんの子?」
 絵里の問いに小野さんはぶんぶんと首を振って、
「ううん、あたし最近引っ越してきたんだもん」
「そうなんだ」
 じゃあ、見覚えがあると思ったのは、やっぱり気のせいなのかな。
「そうだ」
 小野さんは急に、パンと手を打ち鳴らした。
「あたし引っ越してきたばっかりでこの辺のこと全然知らないんだ。まだ上履きも買ってないし……」
 言われて足元を見ると、小野さんは、たしかにサイズの合わない、茶色い来客用のスリッパを履いていた。
「絵里ちゃん、地元でしょう。この辺案内してよ」
「え、今から?」
 ちらと校庭を見ると、まだ校長先生の話は続いていた。
「そうそう、善は急げって言うでしょ」小野さんは立ち上がると、絵里の手を取った。
「でも、先生まだ戻ってこないし」
「大丈夫大丈夫、……」小野さんは言った。「絵里ちゃん、なんかノートとか持ってる?」
 言われて絵里は手提げから、今日提出する予定だった漢字練習帳を出した。一枚破ってもいい? と聞かれ、最後の方のまだ使っていない頁を破って渡すと、小野さんは、事務机の中から勝手にボールペンを出し、そこへさらさらと何かを書いた。
 しばらくして、先生が戻ってきた。
「ごめんごめん、遅くなっちゃって……。て、あれ?」
 先生は部屋の中をきょろきょろ見回したが、誰の姿もなかった。不審に思いつつ、マグカップを手に取って飲もうとすると、いつの間にか中身は空になっている。
「……ん?」
 ふと、そこにノートの切れ端が置かれているのに気づく。空調の風で飛ばないようにマグカップの下へ敷かれていたようだった。
 そこにはやけに綺麗な筆跡でこう書かれていた。
『具合が悪いので早退します。』
「……あの子、具合が悪いから、保健室来てたんじゃなかったのかしら」先生は、呆れたように溜息をついた。
 

 通学路に指定されている路地を一本奥へ入ると、月極駐車場の角に神社が見える。境内にたくさん木が植えてあるせいか、近くへ来ると、蝉の声がいちだんと大きくなった。
 絵里と小野さんは、境内へ入ると手水場の水をごくごく飲んだ。冷たくて止まらなくなり、何度も何度も水をすくっては口元へ運ぶ。
「ああ、生き返った……」
 人心地つくと、小野さんは本殿へとつづく石段の途中に座り込んだ。絵里もその隣へ腰かける。境内には、二人の他には誰もいない。
「やっぱりおばさんくさい……」
「え?」
 小野さんは耳に手を当てて大きな声で聞き返した。蝉の声がうるさくて、近くにいてもよく声が聞こえないのだ。
「なんでもない」
「ホントに?」小野さんは疑わしげに目を細めた。「なんか失礼なこと言われた気がするけど……」
 二人は、目の前にある石の鳥居ごしに、雲ひとつない青空を見上げた。これって、やっぱりサボりになるのかなあ、と絵里は思う。もうさすがに校長先生の話は終わったと思うけど……、もうそろそろ下校時刻になる頃だろうか。
 こんなところにいるの、誰かに見られたらどうしよう……、絵里の口から、思わず溜息が出てしまう。
「どうかした? 絵里ちゃん」
「や、……別に」
「そう」
 小野さんは短パンのお尻についた砂をぱんぱんとはたきながら立ち上がると、何も言わずにいきなり、絵里の後ろ頭を指でつん、と突いた。
「ひゃあ!」
 反応する声も裏返ってしまう。絵里は恥ずかしさで顔を赤くしたまま、「もう、いきなりつむじ触んないでよっ」
「えへへ」
「もう……、何なの……」
「この神社って、戦争が終わった後にできたんだよね」
 と、急に小野さんが言った。
「え?」
「ここ、空襲で焼けちゃったこの辺りの神社のいくつかが、戦争が終わった後に一つにまとめられて、出来たんだって」
「……ふうん」
 絵里は、ずっとこの辺りで暮らしているけれど、そんなこと初めて知った。さっき、引っ越してきたばかりだと言っていたはずなのに、どうしてそんなこと知ってるんだろう……。
「そういうの好きなの」
 小野さんは、絵里の心の中を読んだみたいにそう続けた。
「……」
「昔はどんな風だったんだろうとか、想像するのおもしろいんだ」と、小野さんは言った。「せっかくここに引っ越してきたんだし、……楽しいことは多いほうがいいもんね」
 二人は並んでブランコに乗り、どちらが立ちこぎを速くできるか競争した。絵里は靴のかかとを踏んでいたせいで、片方の靴が脱げて飛んでいってしまった。あわててケンケンで取りに行く絵里を見て、小野さんは笑っていた。
 一段落すると、ブランコに座ったままいろいろなことを話した。
「ねえ、どうしてさっき、台詞覚えてたの」と、絵里はさっきから疑問に思っていたことを訊いてみた。
「え?」
「ほら、保健室で……、あたしが劇の練習してた時さ、小野さん台詞ぜんぶ覚えてたじゃない」
「あたし記憶力いいんだ」
 と、小野さんは言った。記憶力いいのにも、程があると思うけどなあ……。
「絵里ちゃんこそなんで、ロミオとジュリエットなんて読んでたの?」
「うちのクラス、演劇祭でロミオとジュリエットやることになってるからさ」
 絵里は言いながら、そういえば小野さんは何組なんだろうと思った。いや、組どころかそもそも同じ五年生なのかもわからない。
 小野さんは、すぐそばにある絵里の顔をまじまじと見て、
「絵里ちゃん、ジュリエット役やりたいの?」
「……、別に、そういうわけじゃないけど」
「ダメだよ」
「え、何が」
「やりたい時は、やりたいってちゃんと言わないと。正直な気持ちをちゃんと言わないと、かなうものもかなわなくなっちゃうよ」
「……」
 絵里は何も言わなかった。
「でも大丈夫」
 小野さんは自分の胸をどんと叩いて、
「きっと絵里ちゃんジュリエット役できるから。あたしが保証するよ」
「……なにそれ、予言?」
 絵里がからかうような口調で訊くと、
「かもね。……わたしの予言、当たるって評判なんだよ」
 小野さんは立ち上がると、
「あーしたてんきになあーれ!」
 大きな声でそう叫び、片方の足を思い切り振り上げ、靴を飛ばした。
 白いスニーカーは大きく弧を描き、境内の銀杏の枝に当たって落ちてくる。絵里がそれを目で追っていると――、
「あ」
「痛った!」
 そのときちょうど鳥居をくぐって境内に入ってきた男の子に、落ちてきたスニーカーが命中してしまった。男の子は、頭を押さえてその場にうずくまっていた。何が起こったのか分らないらしく、上を見上げてきょろきょろしている。
「……どうする? 逃げる?」
 と、小野さんは言った。
「逃げちゃだめだよ、ちゃんと謝らないと……」と、絵里は言ってから、すぐに気がつく。足元に落ちている靴を拾い上げ、こちらに近づいてくる男の子のことを、絵里は知っていた。
 どうして、よりによって平塚くんが……。絵里は思わず顔を背けてしまい、小野さんは不思議そうな表情になる。
「……これ、君の靴?」
 と、平塚くんは言った。
「ごめんなさい、靴飛ばししてて……、怪我とかしなかった?」と、小野さんは軽く頭を下げた。
「投げるよ、ほいっ」
 小野さんは平塚くんが投げ返してきた靴をキャッチすると、履きなおして爪先で地面をトントン、と叩いた。
「ホントにごめんね」
 顔の前で拝むように手を合わせる小野さんに、
「あ、平気だよ。眼鏡も無事だし」と、平塚くんは笑った。そこでようやく、そっぽを向いたまま黙っている絵里に気づいたらしく、
「あれ、そこにいるの笹原さん?」
「……」
「なんか、具合悪いって先生が言ってたけど、大丈夫?」
「……」
 首筋に汗が流れたのは、暑さのせいだけではなかった。
「……ごめんなさい」
 と、絵里はぽつりとつぶやいた。
「なんで謝るの? 元気ならいいんだ。よかった、安心した」
 平塚くんはにっこりと微笑んだ。
「……」
「じゃあ、また明日ね」
 平塚くんは境内を横切ると、本殿の裏へと回った。誰かの悪戯で端の垣根が倒されていて、そこを通ると裏の駐車場へ出られるため、一部の生徒が近道として利用しているのだ。
 二人は境内に残された。
「……知り合い?」と、小野さんが訊いた。
「……同じクラスの男子」
 と、絵里は答えた。
「なんか、変な感じだったけど、大丈夫?」
 絵里はしばらくの間黙っていたが、
「……さっき、小野さん言ったよね、正直な気持ちを言わないと、かなうものもかなわなくなっちゃうって」
「うん」
「……そんなの、嘘だよ」
「……」
「あたし、平塚くんのことが好きなの。でも、ふられちゃった」
 絵里は俯いたまま、ゆっくりと言った。
「……正直な気持ちを言ったって、かなわなかったもん。どうやったって、かなうわけないもん。
 やっぱり平気じゃない。ぜんぜん平気じゃない。……もう、普通に友達だった頃の気持ち、思い出せないよ……」
 言葉の終わりの方は震えて上手く聞き取れなかった。目元を拭う指の間から落ちた涙が、境内の白い砂の上へ染みをつくった。


 その日の夜、絵里は部屋の布団に横になって本を読んでいた。いつも寝る前にはそうしているのだけれど、今日にかぎってどうも内容が頭に入ってこない。とうとう、本を閉じ、枕元に置いてしまった。
 ごろりと寝返りをうち、天井を見る。絵里は、昼間のことを思い出していた。
 ……あー、やっちゃったなあ……。
 あの後、小野さんは絵里が泣き止むまでずっと背中をさすっていてくれた。そのまま二人は別れ、近所を案内してあげる予定はお流れとなってしまった。
 小野さんの前でいきなり泣いたりして、変な子だと思われなかっただろうか……。
 お母さん以外の人の前で泣いたのは、すごく久しぶりだった。思い出すと恥ずかしさで顔が熱くなる。
 そのとき、不意に部屋の戸がコンコン、とノックされた。
「はあい」
 起き上がり、返事をすると、戸が開いてお母さんが顔を出した。
「調子どう? 大丈夫?」
「あ、もう全然平気」
「気をつけてね、ちゃんとお水のみなさいよ」
「うん」
「……それからね、お婆ちゃんの話なんだけど」
「え、……」
 絵里のお婆ちゃんは、一ヶ月くらい前から体調を崩して入院していた。この間平塚くんと会ったのも、お婆ちゃんのお見舞いの帰りだった。夏休み、一人でいることの多かった絵里は、ちょくちょくお婆ちゃんのお見舞いに行っていた。
「お婆ちゃん、どうかしたの?」
 絵里は、心配になり思わずそう訊いた。
「絵里には言ってなかったけど……」お母さんは表情をくもらせた。「お母さん、甲状腺癌なのよ。……もちろん、本人には言ってないんだけどね」
「……甲状腺?」
「ここ、喉のところ」
 お母さんは自分の喉下を手でさわった。
「……」
「検査したら他にも悪いところがいくつかあって……。もういい年だし、もしかしたら今年中はもたないかもしれないって、お医者さんは言ってたわ」
「……そう」
「だから、いつどうなるかわからないから、覚悟はしておいてね」
「うん」
「じゃあ、早めに寝なさいよ。お休み」
 お母さんが出て行ってしまうと、絵里は布団の上へ寝転がった。
「覚悟って言われても……、そんなの、何すればいいんだろう」
 ごろごろと寝返りをうちながら、
「……明日、学校行きたくないなあ……」
 と、つぶやいた。
 その後、布団に潜り込んでぱらぱらと本の頁をめくっているうちに、絵里は寝てしまった。
 暗い部屋の中、手元に置かれたライトの明りに、開きかけの頁が照らされていた。

『 同じような声望を享受していた二つの名門が、
 この劇の舞台、つまり美しいヴェローナにありました。
 昔からの両家の確執が今さらのように息を吹きかえし、
 平和な市民の血を流すひどい暴力沙汰と相成りました。
 事もあろうに、このいがみ合う両家から生まれ出たのが、
 互いに恋し合う二人の男女、誠に不運な星の下に生まれついたもの。
 この恋人たちの前途には見るも無残な破滅の道が横たわり、
 はては死が待ちうけ、その死と共にやっと親たちの争いも葬られる始末。
 死の影に怯えとおした二人の恋の一部始終、そしてまた、
 愛する子供たちの非業の最期がなければ、
 いつ止むとも知れなかった親たちの怨恨の一部始終、
 これから二時間にわたって演じます舞台の仕事でございます。
 どうかよろしくご清聴をわずらわせたく、
 作者の意足らざるところは、われら俳優懸命につとめ補う所存でございます。』

   
    ※


 夜中に降り出した雨は、朝になってもまだやまなかった。通学路の路地や歩道橋には色とりどりの傘の花が咲き、はしゃぎ回る低学年の男子たちの長靴が、あちこちにある水溜りを踏んで行った。
 いつもより少し遅く学校に着いた絵里は、薄暗い昇降口のすのこの上で、濡れた靴を履き替えていた。
 うわ、靴下まで濡れちゃってる……。やっぱり長靴履いてきたほうがよかっただろうか。
「おはよっ」
 不意に声がかけられ、絵里は振り返ったが、答える間もなく声の主は廊下を小走りに駆けていき、すぐに見えなくなってしまった。
 詩織ちゃんかな? でも、いつもはもっと早く来てるはずだけど、……遅刻したんだろうか。やけに急いでいたみたいだけど、何かあったのかなあ。
 そんなことを考えながら、絵里も廊下を歩く。西階段を三階まで上がり、教室の戸を開けた。
「あ、絵里ちゃんおはよう」すると、もうすでに来ていた詩織ちゃんが声をかけてきた。
 吉川詩織ちゃんは近所の商店街のスポーツ用品店の子で、何度か家にも遊びに行ったことがある。この辺りに住んでいる人は、だいたい体操着や上履きを、詩織ちゃんの家である、ヨシカワスポーツで注文することになっている。
「おはよ」
 絵里が自分の席につくと、
「絵里ちゃん、具合平気なの」前の席の詩織ちゃんは、椅子ごと後ろを向いて訊ねてきた。絵里はランドセルを下ろしてから、
「うん。ありがと、もう大丈夫……」
「もう、心配したよー、先生が保健室行ったって言ってたからさ」詩織ちゃんはいたずらっぽく笑って、「……でね、病み上がりで悪いんだけど、さっそくひとつ頼みがあるんだけどさ」
「……もしかして、宿題?」
「さすが絵里ちゃん、話が早い」
「だーめ」
 絵里は教科書とノートを仕舞い、ロッカーにランドセルを置いて、席へ戻った。
「いつも言ってるでしょう。宿題は自分でやんなくちゃだめだよ」
 絵里は筆箱を開け、授業にそなえて鉛筆の芯が折れていないかどうかを確かめた。
「ええ、あと算数ドリルだけなんだよー」詩織ちゃんはお願い、と両手を拝むようにあわせた。
「……」
 詩織ちゃんはいつもこの調子で、最後には絵里が根負けして見せてあげるのが常だった。それに、……頼りにされているのは、正直うれしいとも思う。
「だめだよ、笹原さん」
 声に振り返ると、いつの間にか、学級委員の岡さんがすぐ横に立っていた。
「げ、委員長」
 詩織ちゃんは大げさに驚いてみせた。
「みんなちゃんと自分でやってるんだから」
「おはよう、岡さん」
 と、絵里は言った。 
「おはよう。……笹原さん、甘やかしちゃだめだよ。吉川さんはちゃんと自分でやればできるんだから」
「……もう、わかったよう」
 詩織ちゃんは溜息をついて、「明日までにがんばって出しますって、後で先生に言ってくる」
「わたしもついてってあげるから」
「ありがとー、絵里ちゃん」かたじけない、と詩織ちゃんは頭を下げた。「もう、なんで宿題なんかやらなくちゃいけないんだろ……。社会に出たって役に立たないのに」
「詩織ちゃん、社会のこと知ってるの?」
 絵里がそう訊くと、
「もちろん知ってるよ、ていうか、社会のことなら何でも聞いてよ」詩織ちゃんは、どん、と自分の胸を叩いた。「……何をかくそう、社会はね」
「うんうん」
「……社会は……」
「うん」
「社会は、厳しいらしいよ」
「……それ、情報少なすぎない?」
 と、岡さんが冷静に指摘した。
「あはは……」
 苦笑する絵里の顔を、なぜか岡さんは、しばらくの間じっと見ていた。それに気づいた絵里が、
「……? どうかした?」
「……ううん、なんでもない」
 岡さんは言葉をにごし、あいまいに視線をそらした。
 やがて、始業のチャイムが鳴る。チャイムとほぼ同時に数人の男子が教室へ駆け込んできた。その中には平塚くんもいたが、すぐに先生が入ってきたので、自分の席へついてしまう。絵里は平塚くんがロッカーへランドセルをしまうのを、無意識に目で追っていた。
 その後からすぐに先生も入ってきた。中村先生は、もうすぐ子供が生まれるらしく、お腹のふくらみが大分目立ってきていた。
 出席簿を教卓の上へ置くと、
「はい、静かにしなさいね」
 それから、ぐるりと教室の中を見回した。「久しぶりに先生に会えてうれしいのはわかるけど、ほらほら、もう騒がないの。……ほら清水くん、ちゃんと自分の席戻りなさい」
「先生、昨日も会ったじゃん」
 男子の一人がそう言うと、
「覚えててくれてうれしいわ」
 と、中村先生は笑った。「はい、今日は宿題出してもらう前に、みんなにいいニュースがあります。……実は、二学期からこのクラスで一緒に勉強する子が、一人増えることになりました」
 その言葉に、静まり返った教室がふたたびざわついた。
 まさか、もしかして……。
 絵里はその言葉を聞いた瞬間、ある予感があった。
 はい静かに、と先生が軽くパンパンと手を叩き、戸の方に顔を向けた。
「入ってきていいよ」
 その言葉を合図に戸が開いて、一人の女の子が入ってきた。教卓の前まで来ると、じっと視線を向けている生徒たちに向かって、にっこりと笑顔を見せた。
「じゃあ、自己紹介してもらおうかな」
 その先生の言葉に、女の子は言った。
「はじめまして、小野松子といいます」
 よろしくお願いします、と頭を下げる。それから絵里の方に向かって小さく手を振ってみせた。
 ……なんか、こうなるような気はしてたんだよね……。
 内心でつぶやくと、絵里は疲れたように溜息をついた。
 その日の授業中、先生に見つからないよう、女子の間に何通もの手紙が回された。小さく畳まれた便せんが次々に、その手から手へ渡った。その内容は、一番前の席で、もうずっと前からそこにいたような顔をして授業を受けている、小野さんについてのものだった。
『なんか先生が言ってたんだけど、転校生、体弱いらしいよ。ずっと入院してたから、前に通ってた学校も行けてなくて……、治ってからも居づらくなってこの学校に来たとか』
『名前、おばさんくさいよね』
『ていうか、なんでスリッパ履いてるんだろ?』
『ジャニーズで誰が好きって訊いてみたんだけど、ぜんぜん知らないみたいだったよ。テレビほとんど見ないとか、変わってるよね』
『さっきの休み時間、笹原さんと話してたけど、知り合いなのかな』
『けっこう可愛いよね。あたし、ちょっと友達になりたいかも……』 
 小野さんは、スリッパを履いた足を気にするように、時々教室の床にこつこつと爪先を当てていた。
 放課後には、雨の勢いが朝よりも激しくなっていた。絵里が西階段を降りていると、
「こんなところにいた」
 踊り場に、ランドセルを背負った小野さんが立っていた。
「……」
 絵里は何も言わずに、そのまま通りすぎようとする。
「どうして無視するのよ」
 小野さんの言葉に、絵里は振り返った。
「……あたしが平塚くんのこと好きなの、絶対に誰にも言わないでよ」
「だから、休み時間にも言ったじゃない……、そんなの言わないってば」
 絵里は大きく溜息をつくと、
「……、小野さん体弱いって、本当なの?」
「誰がそんなこと言ってたの」 
「知らないけど、女子の間で噂になってる」
 小野さんはしばらく黙っていたが、
「雨」
「え?」
「雨の音がする。すごい降ってるね。……絵里ちゃん、あたし傘忘れちゃったんだ。だから入れてってよ」
 二人は昇降口で靴を履き替えた。
 絵里の傘は小さくてお互いの肩が濡れ、二人はぶつくさ文句を言いながら歩いた。
「あたしの天気予報、当たったでしょ」
「……?」
「ほら、神社で」
「ああ、……」
 言われてようやく気づく。
「あれ、平塚くんに当たったんだし、無効だよ。……それに、予報できるなら、どうして傘さしてこないの」
「だって、絵里ちゃんと一緒に帰りたかったんだもん」
 大通りへ出ると、横断歩道の信号が赤だったので二人は立ち止まった。
「……小野さん、あのこと誰にも言わないでね」
 と、絵里は言った。
「もう、絵里ちゃんしつこいなあ」と、小野さんは苦笑した。「大丈夫だって。誰にだって、人に知られたくないことの一つや二つ、あるもんね」
「……」
 ――転校生、体弱いらしいよ。
 小野さんも同じなのだろうか。
 ……あたしと同じように小野さんにも、誰かに知られたくない秘密があるのだろうか。


 『ロミオとジュリエット』は、イタリアのヴェローナという町での物語だ。
 ヴェローナでは、モンタギュー家とキャピュレット家が昔からいがみ合いを続けていたが、モンタギュー家の一人息子であるロミオは、友人のマキューシオたちと忍びこんだキャピュレット家のパーティで、キャピュレット家の娘、ジュリエットに出会った。二人はお互いに一目ぼれしてしまう。
 両親に知られないよう、二人はひそかに修道士ロレンスの元で結婚の誓いを果たすが、その後ロミオは町での争いに巻き込まれ、キャピュレット夫人の甥であるティボルトに、マキューシオを殺されたことに逆上し、反対にティボルトを殺してしまう。その結果、大公にヴェローナ追放を言い渡されてしまうのだった……。
 ある日の昼休み、絵里は自分の席で『ロミオとジュリエット』をぱらぱらとめくっていた。その隣の席では、小野さんが突っ伏して寝息を立てている。
「ん、ん……」 
 小野さん、机によだれ垂れてる……。 
 前の机に座って自分の爪をいじっていた詩織ちゃんが、突然顔を上げ、
「男ってさあ、ほんとバカだよね」
 と、言った。よっと、と掛け声をかけてから机から降り、窓越しに校庭を見下ろす。
 絵里もそれにつられて外を見た。校庭では、五六年生の男子が混ざってサッカーをしていて、知った顔もちらほらと見えた。みんな、大きい声を上げて走り回っている。
「……、バカ?」
 絵里のつぶやきに、
「だってそうじゃない?」と、詩織ちゃんは言った。「町中で、いきなり殺し合い始めたりしてさあ、ジュリエットとか、他の人の気持ちなんて何も考えてないみたいなんだもん」
「ああ、ロミオとジュリエットの話……」
 ようやく合点がいく。
「いつの時代も、男子ってよくわかんないよね」
 男子がバカだというのは、絵里も同感だった。同い年の男子は、くだらない話でいつも盛り上がっていて、子供っぽいなあとも思う。
「……あの、詩織ちゃんさあ」
 と、絵里は切り出した。
「何?」
「……一目惚れって信じる?」
「……」
 詩織ちゃんが何か答えようと口を開きかけた時、
「信じる!」
 突っ伏していた小野さんが急に片手を挙げて元気よく叫んだので、絵里と詩織ちゃんは驚いて思わず身を引く。
 小野さんはまたすぐに顔を伏せ、すうすうと寝息を立て始めた。
「……寝言?」
 と、絵里は呆れたようにつぶやいた。
「なんか小野さんて、変わってるよね」
 詩織ちゃんの言葉に、絵里はうんうんと頷く。
 小野さんが転校してきてから、もう一週間が経っていた。絵里と詩織ちゃん、それから委員長の三人の他はほとんど小野さんに話しかけることはなかった。男子も女子も小野さんのことを遠巻きにしていたが、小野さんの方は、そんなことはいっこうに気にしていないようだった。小野さんは授業中にも関わらず寝ていることが多く、指されることもしばしばあった。けれど、その度に寝ぼけ眼で問題には正解するので、先生もあつかいに困っているのが見てとれた。
 だからもちろん、優等生とは言えないけれど、実は頭がいいのかもしれない。家に帰ってからは、きちんと勉強したりしているのだろうか。
 ……とてもそんなふうには、見えないけどなあ。
 絵里はそんなことを考えながら、しばらくの間、よだれを垂らしながら眠る、小野さんの幸せそうな寝顔を見ていた。
掃除の時間になり、絵里と詩織ちゃんは、机と椅子を後ろに下げた教室で、窓際に置かれたバケツの上で雑巾をしぼっていた。黒板の上に設置されたスピーカーからはクラシック音楽が流れている。
 カン、カンカン、カン、……。
 さっきからひっきりなしにしているのは、教卓のそばで数人の男子がチャンバラをして遊んでいる、その箒が打ち鳴らされる音だ。
「ちょっと、真面目にやりなさいよ」いつものように、女子数人が声をそろえ、不機嫌そうに男子たちに抗議する。男子のほとんどは掃除を真面目にやったためしがなく、毎日にように女子たちが注意することになる。
「ちょっと、真面目にやりなさいよ」
 男子の一人が女子の声真似をして笑う。
「真似しないで」
「真面目にやってるっつーの、なあ」
「そうそう」
「どこが真面目なのよ」
「真面目に練習してるんだよ、劇の練習」と、男子は言った。「町の中で、ロミオがティボルトと、剣で戦う場面あるだろ。……知ってるか? いい役者はいつだって練習を欠かさないんだ」
「まだ役も決まってないじゃない、屁理屈いわないでよ」
 しばらく言い争いをしていたが、女子の一人が怒って手に持っていた雑巾を男子たちに向かって投げた。すると、男子の一人がそれを箒の柄で打ち返し、その雑巾が絵里の方へ飛んできた。
「え?」
 絵里は気づいたが、もう遅かった。濡れた雑巾が正面から顔に当たり、床に落ちた。
「絵里ちゃん、大丈夫?」詩織ちゃんが心配そうな声で言う。
「あ、うん……、あんまり痛くなかったし……」
 その言葉を言い終わらないうちに、さっきから、窓を開けて黒板消しをはたいていた小野さんが、いきなり黒板消しを放り投げると、大股で男子たちの方へ近づいていった。
「な、なんだよ、転校生」男子の一人が、小野さんの迫力に押されてそうつぶやいた。
 小野さんは黙って、他の男子から箒を引ったくると、さっき雑巾を打ち返した男子に向かって振り下ろした。男子は、あわててそれを柄で受け止める。男子の、何すんだよ危ないだろ、という声を無視して小野さんは箒を振り回し、ついには転んだ男子の上に馬乗りになった。
 丸腰になった男子の、その怯えた顔の上に箒の柄を振り下ろそうとして……、その寸前でぴたりと止める。
「『おい、ティバルト、さっき貴様は俺を「悪党」と言ったな、』」
 と、小野さんは言った。
「……言ってない……」
 横にいた男子が小さい声でつぶやくが、誰も聞いてはいなかった。
「『今こそその言葉を、そっくりそのまま貴様に返してやる。
 マーキューシオの魂が俺たちの頭上ほんの少しのところをまださ迷っていて、
 貴様の魂を道連れにしようと待っているのだ。
 貴様か俺か、それとも俺たち二人があいつといっしょに行ってやらねばならぬのだ。』……」
 静まり返った教室の中に、小野さんの声がひびいていた。
 やがて騒ぎをききつけた先生がやってきて、押し倒された男子と小野さんを職員室に連れて行った。残されたみんなは、興奮気味に、口々に小野さんの話をしていた。
「小野さん、かっこよかったねえ」と、詩織ちゃんは言った。「小笠原も、あれくらいやられていい気味だよ」
「うん……」
 絵里は曖昧に頷き、それから立ち上がった。
「どこ行くの?」
「……顔、洗ってくる」
 そうつぶやいて教室から出て行く。早足で廊下を歩いていたが、ふと立ち止まった。
 今のって……、小野さん、わたしのために怒ってくれたのかな。
 ……誰かが自分のために怒ってくれたことなんて、今までにあっただろうか?
 もちろん、あったのかもしれない。
 胸に手を当ててみると、心臓がまだどきどきしていた。不意に五時間目の予鈴が鳴ったので、絵里はあわてて水飲み場へと急いだ。


      ※

 
「王手飛車取り」と、平塚くんは言った。「もうあきらめた方がいいんじゃない? ケンジ」
「……むむむ……」
 石浜くんと平塚くんは、放課後の教室で、机に置いたマグネット将棋盤を挟んで向かい合っていた。石浜くんは、眉根を寄せて腕組みをし、真剣に考え込んでいる。盤面を見るかぎり、すでに大局は決しているようだった。すでに教室の時計は四時を回っていて、もう少しで最終下校時刻になる。
 その時不意に教室の戸が開いたので、二人はびくんと身をすくませた。
「……え、何やってるの?」
 入ってきたのは絵里だったので、二人は同時に安堵の溜息をつく。
「なんだ、笹原さんか……」と、平塚くんは笑顔になった。「先生かと思ってびっくりした」
「笹原、驚かすなよ」
 と、石浜くんが言った。
「石浜くん、いつもながら顔が怖いよ」
 絵里は指摘する。
「うるさい」 
 背の順で一番後ろの石浜くんは、顔が大人っぽいこともあり、眉間に皺を寄せているとひどく迫力があった。
 絵里は、神社の一件以来、平塚くんとはほとんどまともに喋っていなかった。大丈夫、大丈夫……、と心の中で念じながら二人に近づく。
「二人とも、……何、やってるの?」
「将棋。僕たちの間で流行ってるんだ」と、平塚くんは言った。「家の納戸で埃かぶってた足つきの将棋盤こないだ見つけてさ、ためしにやってみたら結構面白いんだよ」
 石浜くんは相変わらず険しい表情で盤面をにらんでいる。絵里ものぞきこんでみるが、将棋のルールをまるで知らないので、どっちが勝っているのかもよくわからない。
 同じ階にある音楽室で、誰かがピアノを弾いているらしく、ここまで音が聞こえてくる。
「無理無理……」
 平塚くんは言いながら、何気なく黒板に視線をやった。「それにしても……、笹原さん、ジュリエット役なんてすごいよね」
「……すごくないよ、だって、くじ引きだし」
 と、絵里は俯いて答えた。
 黒板には、今日の学級会で決められた『ロミオとジュリエット』の配役がチョークで書かれたままになっていた。日直が消し忘れたのだろう。
 絵里は、ロミオとジュリエット役のところに並んだ名前を見た。

 ロミオ……小野松子
 ジュリエット……笹原絵里

 今日の学級会で演劇祭の役決めが行われた。「みんな公平に……」という先生の提案により、くじ引きで決めることになったのだが、その結果、女子の小野さんがロミオ役をやることになってしまった。先生が男女の役を分けておくのを忘れていたらしい。
「でも小野さん、台詞完璧だったし……、かっこよかったからぴったりだよ。別に男子じゃなくてもいいんじゃない? ていうか、男子よりも小野さんの方が似合ってるよ」
 この間の、掃除の時間に起こった一部始終を見ていた女子の数人がそう言って賛成したため、そのままの役でいくことになった。男子からも反対の声は出なかった。男子たちは、ロミオ役だなんて恥ずかしくてできればやりたくなかったのだ。
「小野さん、ちょっと男の子っぽいし、宝塚みたいだね」
 と、詩織ちゃんが笑いながら言っていた。
 絵里は、小野さんがロミオをやることが不満なわけじゃなかった。想像してみたら、詩織ちゃんの言うように男の子っぽい小野さんは、たぶん似合うだろうと思う。
「……気が重いよ……」
 絵里は小野さんの予言どおり、見事ジュリエット役を引き当ててしまった。
 平塚くんがロミオ役になるかもしれないだなんて、ちょっとでも考えていた自分がバカみたいだ。こうなってみると、自分が人前で演技をすることについての不安しかない。
「でも、笹原さんすごく似合ってるよ」
 と、平塚くんは言った。
「え……」
 絵里はその言葉に動揺を隠せなかった。似合ってるって、どういう意味だろう……。
「あ、そういえば、……」絵里は露骨に話題を変えた。「ふ、二人とも、小野さん見なかった? 一緒に帰ろうと思って探してたんだけど……」
「いや、見てないけど」
 と、平塚くんは言った。「ケンジも見てないよね」
 石浜くんは将棋盤をにらんだまま無言で首を振った。
「そっか、……じゃああたしもう行くね」
 踵を返した時、足が机に当たってしまい、平塚くんが盤のそばに固めておいていた歩が何枚か床に落ちてしまった。
「あ、ごめん……」
「いいよいいよ」
 絵里は咄嗟にしゃがんでそれを拾い上げる。机の下に潜り込んだことに気づかず、そのまま立ち上がろうとして、
 ゴン!
 思い切りおでこをぶつけてしまった。その衝撃で盤面の駒もバラバラと床に落ちてしまう。
「……痛ったあ……」絵里は頭を抱えてうずくまる。うう、目の前で火花が飛んだ気がする……。
「ああーっ!」石浜くんは立ち上がり、大声を上げた。「何すんだよ、今逆転の手が見えそうだったのに」
「ご、ごめんなさい……」
 涙目で謝る絵里に、
「笹原さん、ぶつけたとこ大丈夫?」
 平塚くんが机の下を心配そうな顔で覗きこんだ。その顔の近さに、絵里は思わずどきどきしたが、何とか平静を保ったまま、机の下から抜け出す。それから、三人で手分けして床に散らばった駒を集めた。ひとつでも残っていたら、将棋をしていたことが先生にばれてしまうかもしれない。
「じゃあ、今の勝負は僕の勝ちってことで」
 駒を拾い終えると、平塚くんが言った。マグネットの将棋盤を折りたたみ、ランドセルの中に仕舞う。
「納得いかない……」
 石浜くんは不満そうに口を尖らせている。「だいたい、正人んちにだけ将棋盤があるのがずるいんだよ。俺も買ってもらおう」
「でも、僕のはじいちゃんのお古だから」
「あれカッコいいじゃん。俺もああいうのがいいよ」
「……あの」
 絵里が小さな声でつぶやくと、
「どうしたの、笹原さん」
「……あたし、そろそろ帰るね」
「そっか、気をつけてね」と、平塚くん。「痛かったら、ちゃんと冷やしたほうがいいよ、おでこ」
「……今度は邪魔すんなよな」
 と、石浜くんはまだ不機嫌そうな顔で言った。
 絵里は教室を出た。昇降口へ行く前に一階の女子トイレに寄ることにする。鏡の前で、さっきぶつけたところを確認してみた。
 あ、やっぱりちょっと痣になってるなあ……。もうあんまり痛くはないけど、ちょっとかっこ悪いかも。前髪でうまく隠れないだろうかと、絵里が試行錯誤していると、個室から水を流す音が聞こえ、女の子が出てきた。隣の洗面台に並ぶ。
「あ、委員長?」
 絵里は思わず声に出した。岡さんは振り向いて、
「……笹原さん」少しびっくりしたような声でそう言ってから、「その、委員長っていうのやめてくれない?」
「あはは、詩織ちゃんのがうつっちゃったみたい……」
「……」
 岡さんは何も言わずに肩をすくめると、蛇口をひねり手を洗った。
 絵里はなんとなくその横顔を見ていた。岡さんはハンカチで手を拭きながら、何か考えこんでいるような表情をしていたが、
「……笹原さん」
「え、あ……、はい」
 声をかけられた絵里は思わず敬語になった。
「あのね、あたし……」
「?」
「……ごめん、やっぱり何でもない」と、岡さんは言った。「また明日ね」
 そのまま逃げるようにトイレを出て行った。その場に残された絵里は、首をかしげた。
 委員長、なんか変だったな。そういえば、この間も何か言いたそうにしてたっけ……?
 どうしたのかな、何か悩みがあるとかじゃなければいいけど……。
「……それにしても、小野さんどこ行っちゃったんだろう……」


   ※


 第二小の屋上からは、西の空に沈みかけた夕陽が見えた。近くの銭湯、「春の湯」の煙突の黒いシルエットがそびえている。金網のそばに立つ小野さんの影が長く伸びていた。どこから集まってきたのか、鳩の群れがその足元をうろうろしている。
 小野さんはちらと空を見上げると、少し笑った。
 キーンコーン、カーンコーン、……。
 チャイムが鳴り終わると、小野さんは話しはじめた。屋上には他に誰もいないはずなのに、まるで誰かに語りかけているような口調だった。
「……昔、イタリアのヴェローナには仲たがいしている二つの家、キャピュレット家とモンタギュー家がありました。ロミオとジュリエットは、この両家にひきさかれた恋人たちの物語です。
 ……でも、ここはイタリアではありません。
 暮らしている時代も違います。仲の悪い両家も、ひらめく剣のつばぜり合いも、
森の中の婚礼も、二人の仲を分かつ毒薬さえもありません。
 それでも人は誰かを好きになり、小さな胸を痛めます。
 ……その思いに、違いはあるのでしょうか?
 人を好きになるその気持ちに、果たして違いはあるのでしょうか?
 そんな恋愛沙汰の一部始終、
 これから一ヶ月にわたって演じます、舞台の仕事でございます。
 どうかよろしくご清聴をわずらわせたく、
 作者の意足らざるところは、
 我ら俳優懸命につとめ補う所存でございます」
 小野さんは言い終えると、にっこりと笑った。
 その足元からバタバタ……、と鳩がいっせいに飛び立った。その音はまるで、打ち鳴らされる拍手のように聞こえた。